ファミリーネームは要らないが (別姓問題で語彙力詰んだオッサンの件)
定年したら 高校生になりたい。
高校に通うわけではなく、バイト。
苦手な事務 (や感情労働 ) はもうヤダ !
皿洗いがしたい。
高校時代は 2年間、ちゃんこ鍋のお店でアルバイトした。授業が終わるといったん帰り、アップルシティ500 (ファイブオーオー) を観て、森田さんの天気予報を合図に家を出る。
当初は HONDA のバイク (MB-50) で通っていたが、免許を取り上げられ (クラスの誰かにチクられ?) 途中からは (佐野元春を歌いながら) 隣町をさらに越えて、チャリで通った。
一緒の時間になるのは大学生が多かった。フロア係には慶応ボーイの島村さん、厨房で調理補助を一緒にやった日大の大河内さん、やはり厨房で鍋を作ったり洗ったりした城西大のナントカ先輩 (名前忘れた😓)
でも更衣室での話題は 何も持ち合わせていなかった。こっちはネクラの高校生で。そういうとき、確か城西大の先輩が一番気さくに話しかけてくれた (もう遠い記憶なんだが😅)
先に高校を卒業して それぞれの大学に通ったりしてる先輩たちが、やたら大人に見えた。
さらに遡ると、小学6年生で仲のよかった N 松くんも 雰囲気がオジサンだった。なので将来は外交官になりたいという作文 (どこかの銀行の支店長だったお父さんの影響だと思う) を発表する記憶の中の N 松くんは 今でも大人だ。小学生なのに。
自分が無知だから、みんな大人に見えた。
その頃って『オールナイトフジ』(港浩一社長もディレクターをしていた) がスタートした時代で (つまり女子アナ以前の、女子大生ブームの始まり) またその後破竹の勢いで、当時の若者に影響を与えていくことになる とんねるずの、フジテレビで初めてのレギュラー番組でもあった (つまり人を茶化して笑うモード、ネアカ天下はじまりの時代)
そんな世間とは逆行するように、
三田誠広『僕って何』
立松和平『遠雷』
中上健次『十九歳の地図』
エリック・ホッファー
佐野元春を聴くだけではなく小説なんかも読むようになり、内省的だけど少しは話題ができてきた。言わばネクラなそういう趣味が 世間と折り合いをつけていく土台になった。
もはや記憶も曖昧な十代を こうして振り返ってみると 別人のようでもあり、しかし紛れもなく今の自分に至るルーツでもあり…
いずれにせよ、どこかで連続性が失われてきていることに気づく。
40年以上の時間を過ごすと、
自分の物語すら忘れてしまう。
「葬儀が消滅し、死そのものも消滅しつつあると予測される近未来の日本社会は、私にはある種の『先祖返り』であるように見えます。というのは、私自身がフィールドワークを続けている狩猟採集民プナン社会では、今も昔も死は忘却されるべきものであるとされ、葬儀そのものがとても簡素なかたちで行われてきたからです。(P136-137)」
「現在、少子高齢化などの社会変化に伴って、葬儀自体が重要性を失うだけでなく、個人の死が相対的に重要なものでなくなりつつあります。(P146-147)」
(奥野克己『ひっくり返す人類学』ちくまプリマー新書より引用)
少し前に読書会をした『ひっくり返す人類学』(奥野克己さん) の感想で、強調するのを忘れてしまったことがあった。
死について。
「死とは生まれる前に戻ること」という、
恐らくリアルな現実の、リアルな理解が、
この世からの、ベストな離脱と思ってた。
しかしそれだと、なぜかこの世に刻まれることになった引っ掻き傷ほどの生が、そのちっぽけだけれど大切なものが浮かばれない。
可愛いものを、可愛いと思ったこと、とか。
「死は忘却されるべきもの」「人の死が相対的に重要なものでなくなりつつ」あること…それは読む以前と以降で、自分の中の何かが、大きく変わる経験だった。
ご先祖様。死んだ人を忘れてはいけない。
お墓も、お参りも。ちゃんとできているだろうか (残念ながらできてるわけがない)
いや忘れていい。むしろ忘れるべきものなんだという根本的な転換。それこそ死ぬまでつきまとうはずだった強迫観念からの解放…のみでなく、死ぬことへの恐怖 (浮かばれなさ) が、逆説的に和らいだ。
先週『クローズアップ現代』で夫婦別姓の話をやっていて考えさせられることがあった。「選択的夫婦別(氏)制度」とは別の話かも知れないが、それに派生して 心の奥に置きっぱなしにしてたことに、気づくことがあった。
妻は次女だが実家から離れられなかった。
わたしは長男だけど妻の実家に家を建てた。
もはや忘れてしまってるけれど、そうなるまでのストーリーがある。それぞれいろいろあったけど、たしかそうすることにした。
自分の、というより、家族の。ご先祖様の。
(ことをむしろ忘れろと思ったはずなのに)
「われわれはものごとを細切れにしてしまうことに慣れきっている。細切れにしたそれぞれの部分を理解したり解決したりすれば、もとの全体をうまく扱うことができると考えがちである。しかし、実際のところそのようなやり方がうまくいくことはめったにない。大抵の場合、区々たるものごとだけではなく、その結び合いが問題だからである (P5)」
「たとえば100個の部品からなる機械をバラバラにするのは簡単であるが、それを正常に機能するように組み立てるのは難しい。部品の正しい組合せが一つしかないのに、可能な組合せの数が無限といいたくなるほど沢山あるのがその基本的な理由である(P5)」
安冨歩『複雑さを生きる』岩波書店より引用
近田春夫さんが以前おっしゃっていたが…
「善と悪っていうものを、たとえば創造を『善』、破壊を『悪』とするじゃない。10年かかって創造したものを、1秒で破壊できるでしょ?そっちのほうが強いでしょ?」
コンプラやポリコレ、ジェンダー平等は紛れもなく「善」(創造された) なのだろうし、そしてそれを簡単にぶっ壊そうとする「悪」に敏感でいるべきだとも思うのだけれど、(大切な部品であるがゆえの) 言葉のみにとらわれてしまうと、その「部品」が「正しい組合せ」から外れたものになってしまいかねない、つまり自らが創造してきたものをぶっ壊すことになってしまわないだろうか。
「前提となる共通のメディアを全く持たずに二人の人間が出会ったとすると、両者は動きがとれなくなる。これを『両すくみ』と呼ぶ。この両すくみを抜け出すための危険な賭けに出ることではじめて、われわれはコミュニケーションを実現する『フリ』をすることができる。
しかしこのような賭けは常に裏目に出る可能性を持つ。双方が学習過程を開いている場合にはなめらかなやりとりが可能となるが、片方がそれを停止させたとき、そこに憎悪と支配と搾取が生じ得る。これを『ハラスメント』と呼ぶ」(P8-9)
安冨歩さんの本に学んだが、人間関係のトラブルの多くは相手、アナタについての理論を構成していく努力、同時に作り変えていく努力をしない、しなくなることが原因である。
言ってもいないこと、を責めるのは最悪だし
付き合いが長い場合には相互に「もう忘れちゃってる物語」を紐解いてみる必要があるかも知れないし、目の前のアナタはわたしが思う固定されたアナタなわけがないし、人は変わっていくのを認めなきゃいけない。
言葉に気をつける必要がさらに増してく一方な時代で、それは良いことだけれども、そこで飲み込まざるを得なかった言葉の奥に潜む思いも、浮かばれずに宙を彷徨ったままでは皆がしあわせになれない。
教えて下さい神様♪
( 正してください皆様🙇♀️ )
何を確かめたいのか、
別人だった頃の曲ばっか聴いてる。
ので (ほぼ) 最近の曲貼って終わります♪
読んでいただき、ありがとうございました。