好きを信じる「しかない」根拠・新説
このnoteでは何度となく常識を疑おうぜ、ということを書いてきた。
例えば。¥10000札に10000円分の価値があるのはごく常識である。
生まれる前からそうだったっぽいし、生まれてこの方ずっとそうである。
でも。よく考えたらあれは単なる紙である。
さあ、古着屋にでも行こうか。
¥10000札を出すと10000円分の洋服と、あの「単なる紙切れ」を交換することができる。
なぜそんなことが可能か?
みんながみんな、「この『単なる紙切れ』には10000円分のものと交換できる価値がある」と信じているからだ。
誰か1人が強く信じていても、他の人が信じていなかったらダメ。
みんながみんな、生まれた時からごく当たり前に、そーいうもんだ、と思って信じて疑わない。
誰もが信じて疑わないからこそ、この「単なる紙切れ」には10000円分の価値がある、という「ことになる」のだ。
サピエンス全史の中でユヴァル・ノア・ハラリはこういうものを「共同主観的な幻想」と呼んでいる。
物理的な事実ではない幻想を共同で信じ合うことで、「実際に」人間社会に効力を持つものたちのこと。
誰もが主観的に、その幻想を信用している場合にのみ成り立つものだ。
なぜそんなことができる?
日本銀行が日本円の価値を保証するからである。
日本銀行ってなんだ?
これもまた共同主観的な幻想である。
よーく考えたら国家も国境も国民も政府も法人も人権も民主主義も資本主義も、共同主観的なものである。
つまり絶対的に、正しい、というものではない。
と言った具合に、いわゆる常識には疑う余地がある。
…とかね、こんなふうに世の中で「まあ当たり前に正しいだろ」とか言われてるものに「いや、そうかな?」と疑問を投げかけるのは、福永がものを考えるときの癖であり、また、そういう風に「常識がひっくり返る」瞬間がたまらなくフェチいのだ。脳汁が出ます。
橋爪大三郎はこういうのを総じて「ポストモダンが陥る相対主義」あるいは「ポストモダンとはすなわち相対主義だ」として批判する。
知らねー単語が2つも出ると読む気失せますよね。
相対主義っていうのは、要するに、絶対的な価値とか、正しさとか、常識とか、そんなもん存在しなくね?という考え方である。
人権を認め、多様性を重視する中で、必ずここに行きあたると思われる。
だからポストモダン(近代以降)は相対主義だ、と言うんですね。
どうなるか?
私から見たら「これが正しい」と思うんだけど…他の人から見たら「いやこっちが正しい」みたいなことが起きた時に。
まあでも私はこれが正しいと思うから。君は君で好きにしたら?となる。
それってあなたの感想ですよね?ってこと。
物事なんて見る角度によってどうにでも見えるよね、と。
こうなると社会に「合意」って生まれない。
宮台真司は別の言い方で「議論の中で、相手のはしごを外しあうタイプのコミュニケーション」と呼んでいて、特に日本では2ch(にちゃんねる)におけるコミュニケーション(「オマエモナー」)に顕著であると言っている。(ちょっと前の本だったんで2chが例示されたんだと思われます)
こういう態度では良質なコミュニケーションは生まれないし、俺は俺で勝手に生きるし、お前はお前で勝手に生きれば良い、となる。
個人単位ならまだそれでも良いんだけど、社会となるとどうか?政治となるとどうか?
無関心に歯止めが効かなくなる。
宮台語でいえば「感情が劣化した想像力のないクズが増える」
民主主義は民度の高さを前提とする仕組みで、みんなが白けていたらもう機能しない、というのは想像しやすいだろう。
今の日本で、政治や社会をよくするために熱く語り合う場所はあるか?
ない。むしろ「暑苦しいヤツ」は「サムイやつ」として集団からパージされる傾向にある。
宮台さんはファミレス化・コンビニ化・核家族化・ニュータウン化で人と人がまともに交流を深めるコミュニティがない(=あらゆる人間が交換可能なパーツになる)ことが原因なのではないかと分析している。
橋爪大三郎に言わせれば「正義」とは。
「自分が正しいと思うことを、人からも正しいと言ってもらえる感覚のこと」である、と言う。
そもそも大体の人は、自分のやることが正しいと思うから行動に移す。
もちろん、あー間違えたなーと反省することはあるけれど、なぜ行動に移せるのかと言ったら、少なくとも自分自身は正しいと思ったから、である。
ところで、正しいと思う人同士がぶつかると喧嘩になる。
うちの敷地はここからここまでだと思う、いやいやーここまででしょ?と。
私の思う正しさが隣人の思う正しさとぶつかる。
まあ時代時代色々あるけど、超ざっくり言えば戦国時代くらいまでは正しさと正しさがぶつかった時には「実力行使」であった。
強いものが勝つ。
強いものが強いと言う理由で自分の正しさを行使して、他の大勢が「俺ら弱いから我慢するしかないか」と諦めている状態は、「正義」ではない。
強い人にとっての正しさではあるんだけど、正義とは呼ばない。
江戸くらいには藩ごとに裁判みたいなことをしはじめたりもしたが、まだまだ未発達。
もう少し上手い方法はないもんか?より良い社会にするにはどうしたら?と苦労して積んでいった、そんな歴史があるのだ。
そして現代。
今、隣人と喧嘩になったらどうするか。
裁判所に行くのである。
裁判官(中立の第三者)が「こっちが正しいです」と判決を言い渡してくれる。
そうやってはじめて「正義」が生まれる。
自分は正しいと思ってたけど、外からも承認してもらえるってことは、やっぱり「本当に正しかった」んだ〜。
この感覚のことを橋爪さんは「正義」と呼ぶ。否、そう定義せざるを得ない。
こういう世の中では暴力行使はビジネスに成り下がる。
これをヤクザ、と少なくとも彼は呼んでいる。
暴力行使は、そこにどんな人情があろうが、事情があろうが、立派な思想があろうが、方法論としては500年も前のやり口である。
日本の法律は大陸法(というかドイツがモデル)なので、法文は「誰が読んでも、どんな場合にでも当てはまる、一般原則」になるように書かれている。裁判官の度量に依らない法文の作り方だ。
人を殺したら罪を受ける。
人を、なので、動物を殺しても罪には問われない。
人でさえあれば、男でも女でも胎児でも子供でも若者でも中年でも病院で今にも死にそうな老人でも、罪に問われる。
法律によって色々範囲はあれど、少なくとも「ここからここまでが人です」と言う範囲は各法律ごとに明確に定義されている。
次に、殺したら、の部分。
これは殺意の有無が争点になる。
殺すつもりはなかったんだけど、殴り掛かったらたまたま転んで頭を打って打ち所が悪くて死んだのであれば、殺したことにはならない。過失致死になる。
もちろんどんなに同情したくなるような事情があったとしても、関係はない。主観・感情の入り込む余地があっては「一般原則」的な法文が書けないから。それじゃあ運用できない。
殺意があって、殺そうとして、しかも実際に死んだ。
これを満たした時に法律は、殺人犯として罪を償うように求める。
これをジャッジするのが裁判官である。
裁判所が間違えたらどうする?そのために三審制がある。
現代の日本(というか近代国家)において。
正義とは「裁判の判断」のことである。
だから正義は、法律が変われば変わる。
(ただし帝国憲法が現憲法に置き換わった時のようなドラマチックな変化はありえないように近代法は出来ている。人権の遵守が法よりも上のレイヤーにあって、世界的に遵守しようぜという話になっているから。)
…と言われると、福永なんかはむくむくと。
まあ言うて法律も確たる常識じゃないからね〜〜みたいなことを言いたくなる。歴史が証明している。歴史の上で正義は圧倒的なまでに変遷してきている。そう言うことを調べて脳汁を垂らすタイプの人間である。
法治国家もまた、共同主観的な幻想である。
多くの人がそれを常識的に正しいと信じ合う、いわば信仰であって。
自然科学のような絶対性や厳密性はない。
(自然科学すら、発端が人間の好奇心である以上は…とこれ以上はやめよう…)
つーかそもそも大陸法と英米法でも異なる。
とかね。そんなことはいくらでも言えるのだけれど。
でも。橋爪さんなんかそんなこと1億倍よくわかっているはずなのである。
んなことは十二分に分かった上で言っているはずだ。
冒頭¥10000札を例に出して共同主観的な幻想であり、常識というバイアスから解放されることが重要だ、みたいなことを書いた。
実際に重要だと思う。お金が唯一絶対の、自分自身の価値を図る指標であるかのように誤認してしまえば、この不景気の時代にはまず間違いなく鬱になる。資本主義が進行すればするほど1部の富豪が全世界の富の大半を占領するようになるのは仕組み上ごく当然であって、そんな時にお金を絶対的に信奉してしまっていては大半の人は不幸になる。
だからライフハックとして。
頭を回して、常識を疑い、価値のバラエティを探ることは重要だ。
「その方が都合が良い」のだ。
でも一方で。福永自身。
じゃあ今、全財産捨ててくれね?と言われたら。
まあ、正直出来ない。明日からどうしよう、となる。
そう。これが「現実」である、という、この視点は、同時に重要である。
法律も、お金も。
まず明確に今の自分の暮らしに差し支える、影響をおよぼす、圧倒的な現実である。それは明確に正義を決め、明確に暮らしぶりを決定する。
一方で、強烈な「現実」ってやつに目をつぶされることに甘んじるのもまた、もったいないと感じる。
ここで必要なのは正義とは別の「自分なりの正しさ」だ。
人権的にも保護されるべき領域であるはずだ。
相反する2つの思想を同時に抱き、いずれも捨てることなく、矛盾に痛みながら、生きていく。
その必要があるのではないか、と。
橋爪さんの正義の話からそう感じたのだ。
2つの相反する概念を同時に持つ、というのは、作曲業を営む上で実際にやっていることでもある。
作曲家は曲を目前で見て、作る過程で1000度も聴いてしまっているので、細かいことに目と耳が向きがちである。
木を見て、森を見ず。
作曲家は必ずそうなる。
だから福永は、自分自身の客観性を1mmも信じていない。
どんなに自分としては気にいる曲が出来たとしても….プロデューサーやクライアントから何か修正が入るのだとしたら「きっと何か作家には見えない、魅力的でないポイントがあったのだろう」と信じる。
木しか見えていない自分より、他人の意見を信じるのだ。
つまり「客観視は不可能であるとあらかじめ諦めておく」
一方で、不可能だから人に任せておけば良いや、というお気楽な発想であってはならない。
作曲家の地位は縦割りの末端、つまり一番下のポジションで、自分より上に偉い人(≒出資者により近い人)がゴロゴロいるのだが…
なぜ彼らが出資してくれるかといったら「音楽は専門性が高いから」である。
音楽の専門家はどのように感じますか?という部分には常に責任を持って応えて作る必要がある。
そのために雇われているのだ。
だから「客観的にみてこの楽曲は、本件にとってどうであるか、スペシャリストの視点から明確に意見を持つ」
一言で言うと
「客観視は生涯決して不可能と深く諦めながら、限りなく客観的に見るための努力を惜しまない。」
こう言う態度が求められる。相反する2つの同居。
このほうが良い、というのを経験的に体得している。
矛盾しながら両極に開いて、追求し続ける。
一瞬別の話。のちにまた合流するのだが。
数年間狂ったようにフェミニズムについて調べ漁っていた時期があった。その際に上野千鶴子の「女ぎらい」という本を読んだ。
非常に感銘を受けつつ、同時に、社会活動って難しいな、と思った。
上野さんが過去の複数の社会学者の論を組み合わせて新論を展開しつつ、過去の社会学者の手法に則って社会分析の対象に現代日本文学や時事ネタを取り上げる、という手法で書かれた本なのだが…
うーん、ぶっちゃけ、スパッと割れる綺麗な論、というよりは、読者の主観に委ね、かつ上野さん自身の主観を交えた、感情的で情熱的な本であると感じた。
もちろん。自然科学と違って社会科学はスパッと割り切れるものではない。それはわかる。感情を交えなかったらそれはもう社会ではない。
(でも感情が混ざったら論ではない…)
でも、それよりもっと重要なのではないかと思ったのが。
この本の目的は大なり小なり社会運動としてのカラーを持っている、ということだ。
さきに紹介した橋爪さんの「正義」の話の冒頭に、「人は誰しも自分のことを正しいと思っている」と書いた。
そして、外からその正しさを承認された時に「正義」になる。
近代国家ではそれは裁判の判断である、と。
で、フェミニズムって元々の性質として、法文の判断を疑う声の高まりを反映した集団による社会運動であって、実際に(日本で言えば)均等法を獲得した、という歴史の文脈上にあるものである。
この本は読んでいて…福永は先に書いた通り、ずいぶん感情的に、煽ってくるなあと思ってあまり良い気分ではなかった。
目から鱗が落ちる発見もたくさんあったけれど、総じては不快な本だ、と、ごく個人的には思った。
そんな感想を見越して上野さんは本書冒頭に「この本は読者にとって不快であろう」そして末尾に「この本を読んでも眉一つ動かない世代、全然何言ってるかわからんという世代が産まれてくれれば、それはフェミニズムの達成の一つの指標だ」というような文言で締める。
なんかねーその口上も含めて「口喧嘩のクソうまい人が感情込みで強烈に持論を展開し、疑問も腑に落ちなさもすげーあるんだけど突っ込んだらバカくそに罵られて言いくるめられちゃいそうな感じ、結局違和感だけを残していく感じ」をすげー感じた。
でもね。上野さんほどの社会学者がそれに気づかずに出版しているわけはないでしょう。
だからこれはフォロワーを獲得し、社会運動として、つまり上野さんが正しいと思うこと(フェミニズムに対する独自の切り口)を「正義(集団フォロー)」の形に変換するためのテクニックなのだ、と考える。
人から背を押されなければ正しさは「正義」に変換されないから。
それが近代社会なのである、ということだ。
自然科学であれば数式が正しければそれが正義である。
でも社会は…そういうもんではない。
上野さんは活動家としてよーくその辺を分かっているのだ。
だから論文でなく、新書なのだ。
上野さんは言いそうだ、「論文で社会が救われるか?まわりくどすぎる。そんなお気楽なことをしていてなにが学問だ?」…めっちゃ言いそう。
事実この本を読んだ友人の感想は「不快だったが心に残った」とか「自分が疑問に思っていたことに緒が見えて救われた」といったものが多かった。
感情に手を差し伸べない限り社会は動かないのだから、非常に適切な手法だろう。
ただただ、福永がひねくれているだけなのだ。
福永はこの本を読んで、正直、社会運動は非常に難しい、自分にそこまでの情熱はない、と手を引いた。ドン引きした、と言っても良いかもしれない。厳密性を多少犠牲にしてでも、感情の手を引く、という発想に対して純粋に相容れないと思ったのだ。言い換えれば、そこにロマンは感じなかった。
人にはそれぞれの好き嫌いがある。
興味と好奇心があるのでもっともっと知りたいと思う。
もちろんフェミニズムについてもそうだし、他のこともそう。
でも。福永は福永の思う正しさでこの世の中を変えたいとは思わない、そう言う情熱を持ち合わせてはいない。正直言ってきっとそうなのだ。
社会運動を志さなければ。
他人の正しさを塗り替えて、熱く感情を逆撫でて、背中を押してもらって「正義」とやらを構築する必要性はなくなる。自分の好奇心を埋めるための調べ物は、ごくごく自分の「正しさ」に従って自由奔放に続ければ良い。
強いて言えば。気が合う友人とは議論し、背中を押し合ったり、論上で反目しあったりして研鑽したい。せいぜいこれくらいのモチベーション。
これが昨年秋頃までの福永のスタンスである。
さて、時間軸は戻り、最近。
前半で書いてきたように「相対主義」という単語と出会った。
いや、これ...俺じゃん…と思った。
ポストモダンが陥りがちな状態。
これを読んでいる多くの人も相対主義に陥っている可能性は十分あると思う。
つまり反論もしないし、情熱もないし、正義も形成しないで、ごくお気楽に自分自身の興味と好奇心を埋めて、社会に興味を示すことなく、同情を持つことなく、シニカルな気分で、自分自身が健康に生きられる分だけの資材の確保を念頭に、一生を逃げ切ろうと言う姿勢である。
自分で言っていて耳が痛い。
宮台さんはこういう傾向を「自己(のホメオスタシス)の時代」と言い換えて呼んでいる。
さて。
ところで先日、江野利内(ex.尾崎リノ)のサポートで出演させて頂いた吉祥寺スターパインズカフェのライブにおいて、共演させていただいた工藤祐次郎さんのライブが大変に素晴らしかった。
彼の歌は基本的に音程がフラットしている。
「歌を歌う」という行為においてごく一般的な言い方をすれば「音程は当たっていた方が良い」
多少ずれていても味わいだ、正確な音程の歌なんて機械じゃあるまいし、なんて批判はつきものだが
福永の経験上99%のレコーディングにおいて、ごくわずかに音程修正を施すとよりよくなる。
もちろん美学なく、ただ音程をジャストに合わせれば美しくなる、なんて単純な話ではないけれど、美学を持って真剣に向き合うならば、音程修正はほぼ必須の工程といって良いだろう。
そして実際に、世に流通する音源の95%は音程を大なり小なり修正していると思う。
ただ。工藤さんの歌は絶対に直す気になれない。
事実音源でもフラットしている。ほとんど音程を直していない証拠だろう。
フラットしているその歌が素晴らしいからである。
歌を練習しようと思ったら好むと好まざると音程が徐々に良くなってしまうのが普通だろう。ギターを練習したらミスタッチが減ってしまうのが現実だろう。
でも、おそらく、彼は、そういうベクトルにアンテナを張っていない。
自分独自の美学のアンテナを、世俗にチューニングを全く合わせることなく(もしかしたら合わせることができず)延々ピカピカに磨き続けた人なのだ。福永はそう感じた。
「正義」の話に擬えれば、それで今、ライブをすればお客さんがきちんとたっぷり来場する。その独自のアンテナの背中を押す人物がいる状態だ。
だが、福永は、もしお客さんが仮に0人であったとしてもあのライブを観たら感動する。あれが「正義」でなく個人の「正しさ」を磨いた形であっても感動したであろう、と思うのだ。
(まあ福永の賛同があった時点でごく小さな「正義」にはなるのだけれど)
終演後工藤さんに直々に「世にそぐわないかもしれないアンテナをピカピカに磨いて美を生み出す姿勢に死ぬほど感動した」みたいなことを言ったのだけど「なんかこの子酔っ払ってるな〜」みたいなリアクションをしていた。
うーん。多分全然伝わっていない。むしろ困っていた。
福永はこう言う時のコミュニケーションがバカくそに不得手である。
酔っ払っているなんてとんでもない。アルコール的にはシラフだし、酔っているとしたらあなたのライブに酔っ払ったんだ、とはさすがに言えなかった。アルコール的にはシラフだったから。酔ってれば言えたのだろうか。
時系列で言えば。
上野さんの社会運動に違和感を覚え。
飄々と生きんとしていたところに橋爪さん・宮台さんから「相対主義/はしごの外しあい」という単語を喰らい。
極め付けに工藤さんのスタンスに心を打たれたのだ。
結果。
覚悟を決めて、自分のスタンスというか、軸足を持つ必要性を強く感じた。
まああんたがそう言うんだったらいいんじゃない?俺はそうはしないけど。
とかやってる場合じゃない、というか。
結局そうやってシニカルに生き続けても概念と概念を渡り歩いて上滑りし続けるだけなのだろう、という先が見えた。
相対主義的に物事を見比べ続けたとしても。
絶対性が見つかる可能性は、絶対に0。
それが「相対」という言葉の意味だからね。
だから、絶対とは「自分で決める」と言う意味なのだ。
福永は新興宗教が勧誘に来るのを煙たく思う。
てめーの信仰くらいてめーで決めますよ、あなたに押し付けられなくても。
反面教師として自身の信仰(好き嫌い)やこだわりを他人に押し付けることはしないと決めている。
そこまではまあまあ、良いとしても。
「波風を立てるのが怖くてビビっている」「暑苦しいのが嫌で白けている」「感情が混ざるのが嫌で論考し続けている」とか、そういう領域にまで達してしまうのであればそれはまさに「ポストモダンの弊害野郎」としか言いようがない。グラデーションの延長上にありうる身近な危険だ。
絶対性なんて絶対にみつからないなら。
「俺の『好き(正しい)』をどこまでも信じぬいて」
「人の『好き(正しい)』とずれた時は、場合によっては戦って(その分リスペクトと思いやりを持って)」
そして
「傷ついたり傷つけたりする可能性があってもその痛みも責任も尻拭いも全部自分でやる」
こういう「覚悟」がただちに必要、と思った。
必要なのは知識ではなく覚悟。(知識も大事だと思うけど)
清水の舞台から飛び降りる。どうなるか?しらん。
それが「生きるってこと」の可能性がある、ということ。
「相対の上を滑りながらお気楽に無益(=無害)を回転するおもちゃではない、血の通った人生が始まる」そんな感覚を持ったのだ。
絶対値が0になる値だけは取るな、と言っても良い。
+でも–でも良いけど、0にはなるな。
批判があろうと発信する。そのダメージをきちんと喰らう。
責任を持つ。人を傷つけたならきちんと傷つく。尻を拭う。
だって自分が悪いんだから。
でも、だからといって軸足を現実から抜いてヘラヘラと浮遊しているのはもっともっと虚無的であろう、と。
ビビって白けたフリをしたり、優しいフリをするのも全く同様。
素肌を野ざらしにして季節を味わなけりゃあならない。
時に日に焼けて皮が捲れ、時にしもやけがふくれて痒くとも。
そうなってはじめて。
フラットする歌を美しく歌い上げることができる可能性がある。
当然できない可能性もある。
でも、少なくとも血は通うだろう。
福永は社会学者ではないので。今日登場した4名の学者たちには知識や厳密性の面で足元にも及ばないだろうが。
音楽家、つくるひと、として、この覚悟の必要性に迫られている。
そう感じたのだ。この実感はごく個人としてはきっと正しい。
…と、信じるべきだ、というのがここまでの話である。
おそらく知的好奇心は尽きない。
法律を絶対正義として信じられるほど論理的でもないし。
常識を単に常識として信じ切ることができるほど信心深くもない。
社会運動を是とできるほど熱くもなれない。
いわゆる「正義」を形成することにも興味を持てないままだろう。
それはもう、手前の性質であって、生涯付き合うほかない。
だけど、上滑りせずに、足を地につけて「生きる」ためには。
少なくとも覚悟を持って、自分の感覚を信じるよう努めるべきだ。
「信じる」という単語以外で表現ができない。
それによって受ける痛みや損を甘んじて。
それによって与える傷や誤解も受け入れて。
…でも思いやりは忘れずに。
という。
まだまだ手付かずの段階だけれど。
何か新しい発想が生まれたので。記録を残すことにした。
社会運動はしない、とかほざくわりには暑苦しいことを書いたんじゃないかとは薄ぼんやり思っているところである。
ちなみに社会運動に対する批判の意図はない。
むしろそういったことを得意とする人から感銘を受けたいと思っている。
福永はクラスの端っこにいたような人間だから、そもそも集団から憧れられる、人を励ます、みたいな明るい存在になれるわけがないとハナからしょぼくれているのだ。とっても残念だけど。
俺だって1度くらい燦然と輝くルフィになりたかったなぁ、と呪詛を唱えながら今日も顎髭をこするばかりです。福永はこの辺、実に尻の穴が小さいんですよね。そりゃあもう、麦わら帽子も似合わない。
こういう気分の時のタバコは…まあぶっちゃけ常時より全く美味いのだ。
本日はこれでおしまいです。
以下は、路上ライブで言うところの「ギターケース」のつもり。
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