抽象性と子どもの可能性
かの有名な芸術家ピカソの格言に、こんなものがある。
また、生物学者のレイチェル・カーソンは著書『センス・オブ・ワンダー』の中でこう語る。
僕も数年のあいだ保育園で働いて子ども達と接していたが、たしかに子どもの無垢な感性には時としてハッとさせられることもあった。
しかしこの、「子どもはみんな持ってるのに大人になると失われてしまう」という表現にいささか疑問が残る。感受性とか芸術性とか、抽象的な能力ばかりが子どもの持っている眠った才能や無限の可能性として持て囃される風潮を僕は否定的に見ている。
身体の大きな子や小さな子がいるように、運動が得意な子と不得意な子がいるように、感受性や芸術性だって大小あるに決まっているのだ。感性の鈍い大人や芸術と無縁の大人は社会に適合する過程の中でそれらを失ってしまったわけではなく、生まれつきあまり持っていなかったのだ。しかしこれを言えば、「子どもの可能性を信じていないのか!」と思考停止の反論をされるから嫌になる。
逆に僕は、いくつかの能力を否定されたぐらいで揺らぐような価値や可能性というのは、現代社会での活躍のみを基準にした狭い視野だから起こるのだと言いたい。
子どもが大きくなりたいと言ったからって、好き嫌いなくたくさん食べてよく眠れば背が2メートルまでだって伸びるよ、とは誰も言わない。生まれつきの遺伝子によって将来どの程度まで背が伸びるかなんてだいたい見当がつく。子ども達が野球を頑張ったって大谷翔平にはなれないし、いくら猛勉強しても東大に入れるのは一握りだし、子どもが憧れる職業はほとんどが狭き門だ。それなのに感受性や芸術性だけは、子ども達全員が等しく備えているのだろうか?
僕はそれを、綺麗事の嘘だと思っている。抽象的で目に見えてよくはわからないからと言って、人には生まれつき有意な差があるという事実を誤魔化してはいけないと思う。
ピカソは歴史に名を残す大芸術家だ。有史以来、この地上に数百億人は人類が出現してきたが、ピカソはその中でも五本の指に入るほどの芸術家ではないだろうか。天才なんてものじゃないくらいの超天才だ。そんなピカソが8歳の頃に描いた絵を見て欲しい。
8歳で貴方はこれが描けましたか?
画力のみならず、対象を観察する能力や特徴を捉える能力、およそ芸術性と呼べる全ての能力が凡人の比ではないほど素晴らしい。子どもは誰でも芸術家だなんてピカソは言うけど、大人になる前から僕にはこれほどの芸術性を備えた時期なんて絶対なかったと断言できる。きっと皆さんもそうだと思うし、今いる子ども達だってみんなそうだ。
レイチェル・カーソンだって歴史に名を残す偉人の一人だ。ましてや生物学者になるほど自然を研究対象にしてのめり込む情熱があるんだから、生命の神秘や自然の不思議へ開かれた感受性が生まれつき他者よりもよほど豊かなんだろう。レイチェル・カーソンが悲観した自然に興味を持たず人工物ばかりに執着を見出す残念な大人は、センス・オブ・ワンダー(驚きと不思議に開かれた感受性)をすっかり失ってしまったのではなく元々鈍かっただけなのだ。
しかし、それがなんだと言うのだろう。
僕は凡人の一人として、凡人讃歌を叫びたい。立川談志は落語を業の肯定と言ったが、僕は保育園で人間の肯定がしたかったのだと最近になって気がついた。
僕が考えるに、天才とはピラミッドの頂点に立つ凄い能力の持ち主なのではなく人類平均から逸脱した特異な個性の持ち主なのではないだろうか。身長2メートルを超す大男は極めて珍しい高身長遺伝子を多く持って生まれてきただけで、それが本当に人類という種にとって優秀ならば平均身長遺伝子を駆逐して人類は大型化していったはずだ。たまたま現代社会の、主にスポーツというジャンルにおいて有利に働いたに過ぎない。大谷翔平だってピカソだってレイチェル・カーソンだって、彼らが世に与えた好影響をありがたく享受することはあれど、過度に敬って我々凡人より上位の特別偉大な存在なんだと思う必要はないのではないか。
たまたま染色体の組み合わせが社会で受け入れられやすい一部の特徴に極端なほど偏って生まれただけで、逆に言えば極端であるということは人類の繁栄においてトランプにおけるジョーカー、トリックスターの立ち回りを与えられただけである。
それらの能力が子どもにはあると盲信することが「子どもの可能性を信じる」となるのだろうか? むしろそれこそ、人間の可能性を探究しようとしないで子どもの人生を現行の条件に合わせて育てようとする人間の未知なる可能性の否定にならないだろうか。
話は変わるが、人間の筋肉には瞬発力を生み出す速筋繊維と持久力を生み出す遅筋繊維があり、その比率は生まれつきそうそう変わらない。日本人の平均は半々くらいなのだが、オリンピックアスリートの短距離走者は8:2で速筋比率が高く、マラソンランナーは逆に8:2で遅筋比率が高いとされる。比率が極端であるからオリンピックの大舞台でメダルを取れるし、その活躍を見て我々凡人も楽しませてもらえるのだが、比率が極端であるということは生存や繁栄に有利ではなかったという証明でもあるはずだ。
別にオリンピックに出られなくたっていいじゃないか。半々の比率で、短距離も長距離もそこそこ走れて生き延びてきた僕たち凡人の先祖こそ素晴らしいじゃないか。極端に大きくならなかったおかげで飢餓が続いた時代を空腹に耐えて生き残ったことも、彫刻のようなムキムキボディにならず適度な脂肪がつくおかげで寒さに耐えられることも、8等身じゃないスタイルも短い足も小柄な体格も日本人の誇らしい歴史の産物じゃないか。
特異点ばかりにスポットライトがあたる現代社会で、あえて僕は凡人讃歌を叫びたいのだ。どんな特徴も包括して多様性を広げていったことで繁栄した、あらゆる人間の個性を肯定したいのだ。
芸術性がないからこそ現実思考で社会を築いてきた人や労働者適性が高い人、センス・オブ・ワンダーを持たないからこそ実利実用を真っ先に考える人、大いに結構じゃないか。
価値や能力のみならず倫理観さえ決定する現代社会に悪態をつきたい気持ちが僕にはある。
テストステロンの値が高い人ほど攻撃性や凶暴性が高いとの研究結果がある。これは相関関係であり因果が証明されたわけではないからイコールで考えるのは危険ではあるが、仮に正しいとしてもだ、男性ホルモンであるテストステロンは男性なら高くていいに決まってるじゃないか。仮にその差が犯罪率の男女差に繋がっているからといって、男性的であることを悪と規定するならそんな社会の方が悪だと僕は思う。
嘘も卑怯も意気地なしも、傲慢も強欲も執着もきっと生存戦略の一つとしてあるのだろうし、社会に受け入れられやすい倫理観のみが人類を繁栄に導いたわけでは決してない。勝手に悪徳を決めて勝手に排除しようとすんなよ。僕は自分が持つ、社会的成功の足を引っ張った要因全てをちゃんと愛してる。一つの物事に集中してばかりいて気が散らなかったら、外敵に襲われるまで気がつかずに食べられていたかもしれない。過去のトラウマや嫌な思い出が何年経ってもフラッシュバックする恨みっぽさがなければ、再び訪れる最悪な出来事を回避できないかもしれない。勇気がなくて好きな娘になにも伝えられずチャンスを逃すことがなかったら、予想外の恨みを買って何者かに刺されていたかもしれない。
ダメなとこ全てにちゃんと意味がある。だって悠久の時を乗り越えて、ダメだとされる特徴を備えて僕は生まれてきたんだから、その特徴のおかげで生き延びた先祖だっていたに決まってる。社会が勝手に欠点や悪徳だと定めたって、僕は丸ごと全て愛し抜いてやる。そして子ども達にも、「それでもいいんだよ」と無条件な愛情を伝えてやるのが本当の保育だったはずだ。子どもはみんな素晴らしい感性を持っていると綺麗事を言うのが保育ではないはずだ。特別じゃないことだって特別なんだ。
可能性なんてクソ喰らえ。眠った才能なんて捨ててやる。お前らが決めんなよと、世間に中指を突き立てながら生きていこうと僕は思うのでした。
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