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芸術に対する一般認識

以前ペットショップで働いていたことを書いて退職するハメになったことがあるから働いてる仕事とかあんまり言わないでおこうと思っていたんだけど、そのせいで自分が考えてることを素直に言えなくなってしまうのだとしたら、それこそ配慮という名の忖度とポジショントークまみれの汚い大人になってしまうから、(仕事が仕事なだけに)個人のプライバシー等には十分配慮するけど自分の職種や思想を伏せることは辞めにしようと思う。かなりの変人ではあるけど、やましい生き方はしていないと胸を張れるつもりだしさ。

で、僕は保育園(それと動物園)で働いているんだけど、ほんの少しだけ絵心があるから今日は子ども達が遊ぶための塗り絵の下書きを頼まれた。
「真ん中に描くだけにして背景とかは描かないで」と注文されて、春の虫とかを描いてみた。
曰く、子ども達の想像で色んな景色や花や他の虫を描くような塗り絵にしたいからとのことだ。つまり決められた絵を塗るだけの作業ではなく、子ども達一人一人の自由な想像で描いて感性を磨いて欲しいという狙いなのだろう。

素直に素晴らしい考えだと思った。
子ども達の想像力は本当に豊かだし、子どもは誰でも芸術家だとあのピカソも語っている。
それで意気揚々と描きあげたのだけど、最近SNSでよく目にする「体育の授業が嫌いだった」という意見について考えることが多かったので、帰り道ではふと考えるところがあった。

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絵に対しては「自由に」とか「想像力を養う」といったフレーズが多用されるよなぁ、と思う。
子どもがどんな絵を描いても(良識ある)大人なら口を揃えて「ステキな絵だね」と褒めてあげるはずだ。
たとえばこれが駆けっこや鬼ごっこだったら、鬼にタッチされてもお構いなしに逃げる子に「自由に走っていいよ」とか、速く走れていない子に「ステキな走り方だね」と言うだろうか?
絶対言わない。言ったらもはや嫌味だ。
なぜか芸術だけが一般認識において自由という大義名分の元、正解がないからって理由で価値基準が失われている気がする。

駆けっこ≒陸上競技であれば明確に勝敗が設定されているし、走力という価値基準がハッキリしている。足が速い選手が勝利するゲームである。勝利という目的のために走力を高める必要があり、そのための手段として走法が生まれる。勝つためには自分の身体的特性を理解して、それに適した合理的な走法を会得して走力を高めるトレーニングを積み上げる必要があるのだろう。知らんけど。
そしてその過程で、自分と向き合い続けていると嫌でも自分の個性が浮かび上がってくる。勝つためには自分はこうやって走るしかない、と配られたカードで勝負することになるのだ。
他の競技にも似たようなことを言えると思う。

それなのにこと芸術に限っては、一般認識において画力があまりに軽視されている気がする。
僕の姉は美大を出てイラストレーターをしているのだけど、美大ではデッサンを毎日のように描いていたと言ってた記憶がある。
僕がしてきたボクシングでも強い選手ほど基礎が出来ている。しっかりとガードを上げてフットワークを使い、左ジャブ、右ストレート、ワンツーと丁寧にフォームのチェックを繰り返す井上尚弥チャンピオンの美しいシャドーボクシングをよく見ていたものだ。
同じように、丁寧に線に沿って色を塗るだけの塗り絵という作業だって絵の上達のためには大切なことだと思う。

「別に絵自体を上手くさせたいんじゃない、遊びを通して感性を養ったり想像力を豊かにするために絵を描けばいいんだ」と思われるかもしれない。
けど自分の感覚から言えることだけど、絵をろくに描いていなければ絵によって養われる感性や想像力があるとしても、その感性や想像力もぼんやりとしたままじゃないだろうか。
自分の中にあるイメージを正確に再現する努力をしてこそ、再現された絵からまたフィードバックを受けて自身のイメージの解像度が上がっていくんじゃないだろうか。その反復練習が手先の技量のみならず感性や想像力を養う。
頭の中だけで繰り広げている格闘技では強くなれない。イメージ通りに動かせない身体からのフィードバックを受けて身体をイメージに近づける努力の道筋をつけたり、イメージを修正したりして格闘技の理解を深めるはず。深くはわからんけど(笑)

卒園式で描いた絵。描き終えてから、花見をしていて桜の木はこんなに大木じゃないなぁと気がついた。描くことで知見を深めたり、自分がどんな表現がしたいのかが少しずつわかるようになるんだと思う。そのためにもやはりどんな世界でも基礎が大切なんだと思う。

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芸術を理解してない我々大人が、勉強やスポーツと違って芸術だけは明確な価値基準を持たずにいるから、みんな平等に「ステキな絵」だし「自由に描いていい」としか言えないのだ。
そしてその影響で、運動部の子と比べて文化部の子は控えめで大人しい性格になりがちな気がする。これはあくまで僕の仮説だけど、コンクールとかはあれど基本的に美術は優劣がつかないから、絵が上手い子は運動が得意な子と比べて他人との競争に勝った経験が少ないのだと思う。それによって育まれる自尊心が低いから大人しい性格になるのかな。
運動部と文化部って、俗に言う陽キャと陰キャに露骨にわかれたよね?(僕は中学帰宅部)
※もちろんそれは全く悪いことではないし、個人的には自信満々みたいな体育会系の人間の方が苦手である。

でももし我々大人の芸術に対する無教養のせいで絵が上手い子の自尊心が満たされずに他分野の影響で低くなり、学生時代にいわゆるスクールカーストで下位に属して肩身の狭い思いが嫌で芸術の才能を投げ捨ててしまう子がいるとするならば、それは大人の罪だと思う。

子ども達の未来のために大人ができることはなんだろう。前回のnoteでも書いたように全くモテない僕だけど、子育てなんて無縁も無縁なんだけど、学ばないことにはなにもわからないから今日は子育てについての本を買っちゃったぜ(笑)

大好きなライター嘉島唯さんが携わってるから気になった。
楽しみに少しずつ読んでみよう。

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遠藤健太郎 Kentaro Endo
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