曖昧さ礼賛—1970年代論の試み、ある映画監督を中心に—
大正エビでうさばらし
確か長谷川町子の4コマ漫画『いじわるばあさん』で「明治が昭和にやりこめられて大正えびでうさばらし」って強気な嫁に辟易しているいじわるばあさんとその友だちが大正エビのフライか天ぷらをやっつけているのがあったが、維新を遂行した勇ましい元勲だらけの明治とこの漫画が『サンデー毎日』に連載されていた当時、話題になっていた全共闘の闘士ばりの現代っ子―これもこの当時使われ始めた言葉―の昭和と比べたら、君主が精神障碍を持ち病弱でわずか15年しか続かなかった大正は激動の二つの時代に挟まれ、印象の薄い時代と思われても仕方がないのかもしれない。
1970年代もそんな時代だったかもしれない、進歩と政治の季節の1960年代と拝金主義の1980年代に挟まれて。
1960年代とは
1960年代は、まず日本においては60年に社会党党首浅沼稲次郎の演説テレビ中継最中に「政治少年」山口二矢により刺され、その翌年61年にはベルリンに壁が建設されることにより町が遮断され、東西対立が深刻化したかと思えばユーゴスラヴィアのチトーがその東西のいずれにも属さない国々を集め非同盟の共同宣言することによって始まり、その後植民地諸国一斉の独立、近代技術の粋の世界一速く安全な新幹線の登場、ベトナム戦争激化、そしてそれとともない民衆の抵抗の全面化―プラハの春、パリの五月革命―、と時代の激震を感じない時はないと言ってもいいほどであった。60年代最後の年に、すでに亡くなっていたケネディが10年以内に月に人をおくると誓った約束が結実し、アポロ11号が月面着陸し、その夏休みに自由を主体性の枠以上に欲望の領域まで広げようとした、これまたある種の政治性を謳ったウッドストック音楽祭によってシックスティーズは華々しくフィナーレを迎えるのであった。
1980年代とは
1980年代は喧しく喧伝されたレーガノミクス、サッチャーリズム、中曽根の行政改革などによる規制緩和、減税がもてはやされ、ただ実際は「ジャパン•アズ•ナンバーワン」の日本はともかくアメリカやイギリスではそれほど失業率や貿易赤字は改善せず経済はそれほど良くならなかったが、好景気の様相は一応呈した。その結果実物経済への堅実な投資は後退し、レヴァレッジを利用した投機が経済活動の主役に躍り出て、金融市場(Big Bang@City)は活況となり、何よりも1990年代以降の拝金主義マインドを準備したのであった(”Greed is good” by Gordon Gekko@”Wall Street” )。
人気ない1970年代
このような「激動」と「拝金主義」のはざまで1970年代はかすんでしまう。まるで何も起きなかったようだったなどと不届きな題の70年代論もあるぐらいだ(Peter N. Carroll, It Seemed Like Nothing Happened - America in the 1970s-, Rutgers University Press)。日本語でも60年代に関しては例えば小熊英二の浩瀚な『1968』(新曜社)があり―題は『1968』となっているが68年を醸造した60年代の中頃から話しは始まる―、80年代に関しては淫していると言っていいほどこの時代に身を入れた論攷(原宏之、『バブル文化論』、慶應義塾大学出版会)があるが、70年代論では時代を総括するようなものはない。
そう、1970年代は人気がない。同時代においてもディッケンズの『二都物語』の有名な冒頭—「あれは最良の時代であり、最悪の時代だった」—をもじって[i]t was the worst of times, it was the worst of times と言う輩がいる始末。でもそりゃそうだろ、1970年代は、ドル本位制の停止、オイルショックで始まり、日本ではそれまでの高度成長は終わり1974年には戦後初めてのマイナス成長。同じ年の8月にはウォーターゲイトの責任をとるためニクソンが大統領在職中初めてのケースとして辞任。日本でも「今太閤」とさんざんもてはやされた田中角栄が金脈政治のけじめをつけるため同じ年の秋に辞任する。共産党の教条性を批判し、人々の解放を目指していたはずの新しい左翼の一部は70年代前半硬直化し、過激派に転じ、日本ではあさま山荘事件、ヨーロッパでは富裕層誘拐殺人犯に転落していく。そしてアメリカの1975年4月30日の惨めなヴェトナムからの敗走。その十年の後半には原油高騰でインフレと高失業率という本来ならあり得ないスタグフレーションという状況を世界は体験する。イランのアメリカ大使館が襲撃され、それに対するカーター政権の対応の悪さはまさにこの時代の混迷を象徴し、1980年代を青息吐息で迎えたのであった。
1970年代のみんなが見ない成果
こう簡易年表のように書くと愉快なことはなく本当にとんでもない10年のように思われてしまう。でも派手な闘争はなく、金ぴかな金持ちを輩出しなかったが、60年代の政治闘争の精神を受け継ぎ地味な市民運動を続け、重要な政治的決定を勝ち取った。例えば女性の権利に関しては、アメリカでは中絶が違憲ではないという画期的な1973年のWade vs. Roe最高裁判決、フランスでもその合法性を保証したVeil法が成立したのは1975年であった。日本では中ピ連が1972年に結成され、経口避妊薬が自由に手に入るように地道に運動した。また直接の女性の権利ではないが、しゃもじとエプロンの主婦連が1973年に商品(ジュース)の表示が不当だと消費者団体として初めて不服申し立てをして最高裁まで—負けてしまったが—闘ったのだ。また格差を解消する累進課税制度が最も厳しい時代であった1970年代は最も経済的に平等であった時代であった。
良い時代とは
冒頭の「大正=1970年代」という悪乗りアナロジーを繰り返させてもらえれば、強権的な明治と治安維持法とその悪名高い予防拘禁の昭和初期の間で、大正は、第一次世界大戦の漁夫の利であったが日本が経済的に飛躍しそれに押されて脆弱ながらも民主的気運が高まり(大正デモクラシー)、米騒動など民衆の権利を請求する近代日本にとっては節目になる時代であった、よしんばその後より戻しが来て昭和金融恐慌が起き、軍部に民主的気運が潰されることになっても。
一体よい時代だったのか、それともとるに足らない時代だったのか、1970年代は、と苛立って聞いてくる向きもいるだろう。どっちでもあったのだ。そう、このような白黒の答えを要求する拙速な質問を無意味にするのが1970年代だった、と言いたい。要は、曖昧な時代だったのだ。曖昧でいる脆弱さ、白黒つけず曖昧でい続けるしたたかさ。例えば左から軽蔑され、右から嫌悪され、政治的には弱い時代であったが、経済的にはいけしゃあしゃあと隠れた社会主義政策と言ってもいい累進課税を遂行し、経済的平等を達成しようとするしたたかさがあったのではなかろうか。曖昧な1970年代、その強さと弱さ。その両義性がセヴンティーズの魅力なのだ。
1970年代のハリウッド映画
その曖昧さの魅力がいかんなく発揮されているのが1970年代のアメリカの映画なのだ。ハリウッドはご承知の通り、ある作品が当たれば、すぐに二匹目のどじょうを狙い雨後の筍よろしく似たような映画を作る。1950年代後半から『十戒』(The Ten Commandments, Cecil B. DeMille, 1956)、『ベン・ハー』(Ben-Hur, William Wyler, 1959)、『クレオパトラ』(Cleopatra, Joseph L. Mankiewicz, 1963)と言った叙事詩的スペクタクルが旺盛を極めたが、1965年に前年の『マイ・フェア・レディ』(My Fair Lady, George Cukor, 1964) が火をつけ『サウンド・オブ・ミュージック』(The Sound of Music, Robert Wise, 1965)の大成功—貨幣価値を考慮に入れるとミュージカル映画で史上最高のヒット作—でミュージカルと言う金脈を見つけると二匹目はおろか何匹目のドジョウを狙ったが—『ハロー・ドーリー!』(Hello, Dolly!, Gene Kelly 1969)、 『ペンチャー・ワゴン』(Paint Your Wagon, Joshua Logan, 1969)などなど—、ヴェトナム戦争、社会的差別などその時代の喫緊な問題から全くかけ離れていて観客を引き付けることができず、さらに悪いことに景気後退期(1969年~1970年)と重なり、映画会社は大恐慌以来の財政的に危機的状況に陥った。映画会社の幹部はこのことを深刻に受けとめ、聴衆の市場調査に乗り出す。その結果、映画館に来る人たちの48%は16歳から24歳の若者で、したがって彼らの好みに合う映画が必要と結論。映画会社の幹部は若手の作り手に大きな裁量を与えることになる。
映画の見巧者としての若者
ところでベビーブーマーと呼ばれるこの戦後生まれの若者たちであるが、彼らはただ若いだけではなくその前の世代に比べ受けた教育水準も高く、家計水準も高まり比較的豊かに育った世代であった。テレビや映画が幼少のうちから身近にあり、映像による物語を理解することを幼い頃から身につけていた、と言ってよいだろう。さらにアメリカの戦後の高等教育機関では映画学科などを通して、映画創作を技術的に講じて、その結果映像を単なる好き嫌いの鑑賞以上に技術的に分析し、学術的に批評するプロの制作者や批評家だけではなく観客をも育てたのであった。
1970年代の若手映画人
当然制作側にたつ若者たちも画面に関する同じ感性を見る側の若者と共有していた。彼らは南カルフォルニア大学(例えばジョージ・ルーカス、George Lucas)、カルフォルニア大学・ロスアンジェレス校(例えばフランシス・フォード・コポラ、Francis Ford Coppola)やニューヨーク大学(例えばマーティン・スコセース、Martin Scorsese)などの映画科で専門的訓練を受けたのであった*。その結果、この若い映画制作者たちは従来のように映画を工場のようなスタジオによる商品生産とみなさず、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの作品というか、その作家主義的主張に影響を受け、映画の予算や売り込みなどを含めたうえで、その作品を総合的に映画の作家、つまりその監督あるいは脚本家の独自性の発露とみなしたのであった。その当時公開されたスタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)の『2001年宇宙の旅』(2001: A Space Odyssey, 1968)やサム・ペッキンパ(Sam Peckinpah)の『ワイルド・バンチ』(The Wild Bunch, 1969)が今までにない世界観やタブーとされていた暴力の特異性が作家性を浮き彫りにし、またその商業的成功がその主張の正しさを証明したように思わせたのであった。
ヘイズ・コードの廃止の影響
もちろん60年代後半から70年代にかけてハリウッド映画のより踏み込んだ表現が可能になったのは若手制作者の才能に全て依存していたわけではない。いわゆるヘイズ・コード(Hays Code)と呼ばれる映画表現の自己規制規範(Motion Picture Production Code)が1966年に撤廃され、より現実的で大胆な表現ができるようになったのだ。つまり能天気で時代遅れの見世物から社会の変容により前面化した時代に喫緊な問題である性的解放、ヴェトナム戦争、街における暴力などをより現実的に表現する術を獲たのであった。
そう、60年代後半から70年代にかけての芸術性の高い、と言うとそれまでの映画がそうじゃないってなるから、社会性や人の内面を深く探る映画と言ったらいいかな、それらがたくさん作られたのは、決して自然ななりゆきではなく、不況にあえぐハリウッドの映画会社の戦略、戦後の観客の嗜好、映画表現の自由化という制度的変革といういくつかの要素が僥倖と言って良いぐらい重なったことに大きく依存したのだ。そしてさらなる偶然はーそれは偶然ではなくl’air du temps、 der Zeitgeistでもなんでもいいが時代の空気を的確に表現していたのであろうー大きなスタジオによる制作ではない『イージー・ライダー』(Easy Rider, Dennis Hopper, 1969)のヒット、低予算での『卒業』(The Graduate, Mike Nichols, 1967)や『俺たちに明日はない』(Bonnie and Clyde, Arthur Penn, 1967)の成功はハリウッドの幹部の判断に反対するものではなく、後押しするものだった。
これが1960年代後半から1975年ぐらいまで続いた日本ではアメリカンニューシネマと呼ばれアメリカではHolloywood Renaissanceと呼ばれるハリウッド映画の質が変容し、1920年代から50年代まで続いた輝かしい黎明期以来のアメリカ映画の黄金期のことである。
『ゴッドファーザー』の革新性
さて1970年代のアメリカ映画の歴史的背景のおさらいはこれぐらいにしてその曖昧さに戻ろう。例えばギャング映画の最高傑作と言っていい1972年の『ゴッドファーザー』(The Godfather, Francis Ford Coppola, 1972)。まず「ギャング映画」というジャンルに収まりきるかという問題。のっけからI believe in America、と訛りが強い英語で移民による建国というアメリカの歴史性を想起させる信念を開陳され、その後すぐに眩しい太陽の光の下での幸せ一杯の結婚式のシーン。ここですでに「ギャング映画」というジャンルをはみ出ていないか。その根拠と言っていいのか、日本語のWikipediaでは通常「犯罪映画」、「スパイコメディ映画」などとジャンルを表記するが『ゴッドファーザー』に関してはそれがない。安い家庭用モニターでは全てが暗闇になってしまうほどの深い陰影ある暗黒の街ニューヨーク、それとは全く打って変わって茶褐色の牧歌的なシチリア、と撮影監督のゴードン・ウィリス(Gordon Willis)による極彩色という言葉の対極にある光と色彩の豊かなニュアンスを含んだグラデュエイション。家業の成功によって初めて可能なはずの豪奢な結婚式を当初事ともしないで、その家業が正業ではないことを恋人に示唆して大いに留保をあらわしながらも、襲撃された父親そして家族を守るという大義名分があるもののまるで名指し難いものに引かれるようにファミリービジネスに引き込まれていく心理的契機―逡巡、決断、生真面目さそして残忍性―をまるで自分の身体に刻み込みように、ゆっくりと「ゴッド・ファーザー」に成っていく過程を表現するアル・パチーノ(Al Pacino)。ヴェルディ(Giuseppe Verdi)のオペラのように、裏切り、策謀、孤独、沈思、と緩急をつけ、物語が波のうねりのように私たちを襲うように演出する監督のフランシス・フォード・コッポラ。さらにこの作品は二年後に封切られたパート2とはお話しが複雑な入れ子状態になっていて、物語にそれまで見たことないほどの重層性を与えている。よくある主人公の正義感に対する好感やその敵の背徳に対する嫌悪という明確な感情を抱くことができず、観ているものはただただ映像のタピストリーと音のオーケストラの豊かなニュアンスに身を委ね、登場人物たちの存在の多義性(moral ambiguity)、すなわち曖昧さを傍観するだけだ。
1970年代の黄昏
ところで僕が最後にここで紹介したい映画『チャンス』(Being There, 1979)は肩透かしをかますようだが、今までさんざんその特徴を力説してきたHollywood Renaissanceのものではなく、その数年後のものである。したがってその時代さえも回顧的に見ており、その終焉をパロディとして描き**、新たな野蛮な時代の予兆を仄めかす。
この作品は封切当時ピーター・セラーズ(Peter Sellers)が『ピンクパンサー』でのドタバタ劇を離れ、久しぶりにシリアスな演技をして話題になり、アカデミー主演男優賞候補にもなった(結果的にオスカーは彼の前を通り過ぎ共演した往年の大スター、メルヴィン・ダグラス(Melvin Douglas)が助演賞を受賞)。映画がアメリカで封切られてすぐに、また日本の封切り直前にピーター・セラーズは亡くなってしまい、映画も追悼される雰囲気の中で受け入れられるようになったようであった。
監督はハル・アシュビー(Hal Ashby)。1973年小学二年生当時から週一回親父と姉貴と週末に映画を見始め、その後何年かして姉貴が誌面の半分以上が俳優、女優のきれいなポートレート写真の『スクリーン』を購読し始め、そこで頻繁に聞く監督の名前であった。少年―と言っても設定は19歳となっているが見た目は少年―と年の行った女性との友情というか恋物語?を描いた『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(Harold and Maude, 1971)。生きることを持て余している富豪たちとその富を巧みに利用し成功を狙う若者たちが交差するハリウッドの風俗を洒脱に描く『シャンプー』(Shampoo, 1975)。ヴェトナム戦争で傷ついた男女をアメリカがヴェトナム撤退してからわずか三年、つまり現在進行中の出来事として描いた『帰郷』(Coming Home, 1978)。
そう、ハル・アシュビーは典型的な1970年代の映画作家である、つまりその時代を超えることができず、時代が下がると忘れられてしまった、という意味において。同時代を生きた人や貪欲的な映画ファンではない、話題作をたまに見る人にとっては『ゴッドファーザー』や『タクシードライバー』(Taxi Driver, Martin Scorsese, 1976)などの名は1970年代の名作として、あるいは『ジョーズ』(Jaws, Steven Spielberg, 1975)や『スター・ウォーズ』(Star Wars, George Lucas, 1977)は70年代の映画という知識はなくとも見ている人も多いだろうが、上記のハル·アシュビーの作品を知っている人はどれぐらいいるのだろうか。ましてや映画ではなく監督の名前となると1970年代に有名になったスコセッシ、コポラの名は映画ファンでない人でも聞いたことがあると思うが、彼らと同じ時代に映画を作り、当時は彼らの映画以上に話題になる映画を作っていたかもしれないハル・アシュビーの名を知る人はもはや今においてはシネフィルしかいないだろう***。
どうしてそうなってしまったのか。できれば数回にわたってここで彼の作品を分析し、その原因を探ってみたい。そしてさらにできればそれを通して―手に余る主題なので果たして上手くできるかわからないが―1970年代とはいったいどんな時代であったかを見て行き、そこから「曖昧さ」という概念を抽出し、敢えて現代において擁護してみよう。
Being There
今回は『チャンス』。
くぐもった光、表情がややもすると読み取れなくなるぐらい登場人物の顔を覆う濃い影などは上記の『ゴッドファーザー』と共通し、テレビやモニターで鑑賞することを気にせずに映画を作っていたまさしく1970年代までの映画だ。
ピーター・セラーズが演じる主人公チャンスはある朝起きると彼を雇っている家の主人が死んだことを(たぶん同じように雇われている)女中だと思われる女性ルイーズに知らされる。ルイーズは当たり前だが主のいなくなった家をすぐに出ていくが、去り際にチャンスに年上の女性を探せとまるで彼に世話人が必要であることを示唆。ここまで観てきて(チャンスの寝室にあるテレビで目覚ましとしてセットしてあった)シューベルトの未完成交響曲というクラシック音楽で起きながらも『チキチキマシン猛レース』やコマーシャルに興がる主人公チャンスには知的に問題があり、たぶん今の言葉で言えば限界知能であることに観ているものは気づくはずである。そのチャンスは主人の死の意味が飲み込めず主なき家に居座って相変わらず庭の世話をしていたが、やがて資産管理をしている弁護士がやって来ると退去を促され、それに素直に従い死んだ雇い主のスーツ、帽子を拝借し、埃にまみれていた、たぶんこれも主人の行李をピカピカにして、それを手にして外界に出る。
外は1970年代のアメリカの都市の中心。すなわち豊かな人たちが逃げ出して、昼間から道に男たちがたむろしている荒廃した街。それまでの屋内のシーンでは立派な家具や温室がある庭などが見え隠れしていたのでチャンスが仕えていたのは豪邸だったとわかるが、その周りの街区はかつて栄えていたのかもしれないが、今はすっかり廃れ、故障した車に火がつけられ放置され、また話しかけただけでナイフを出して脅すような愚連隊がいるようなな治安が悪いゲットー化してしまった。ところが主人公のチャンス自身はそれを把握できない。
このように知的に問題があるためチャンスは行くところの当てがなく街を彷徨し―忙しく車が行きかう幹線道路の中央分離帯をチャンスが歩く夕暮れは彼の切羽詰まった状況に全く無関心かのように黄金色に輝き美しい―、夜になりショウウィンドーの大好きなテレビにみとれていると黒塗りの大型車(リムジン)と接触をしてしまいけがをしてしまう。車の持ち主である(Shirley Maclaineが演じている)女性はある種の恵まれた人たちの人の良さなのか、それともけがを負わせた後ろめたさからなのかバカ親切で、家には医者もいるので家で療養することを勧め、零落したdowntownを離れ、suburbにある緑深い鬱蒼とした森の中に凛然とそびえたつ豪邸にチャンスを連れて帰る。
そこで彼を迎えるのは老齢からか病床に臥す城主(メルヴィン・ダグラス, Melvin Douglas)。Self-made manなのかOld money なのかは分からないが一角の人物で生涯自分の意志を通して来られた人で、つまりわがままな人で他人の話しを聞かない。ところがそうは言っても死期が近く、そのため自分の人生あるいは死に意味を持たせたいのか、ありきたりの周りの部下のお世辞まがいの小賢しい言辞や使用人の耳当たりの良い言葉では満足できず、そこにおあつらえ向きにやってきたチャンスの単なる庭いじりの話しを含蓄あるアフォリズムのようにたぶん半ば意図的に曲解し、チャンスの中に賢人を見出し、自らの死と折り合いをつけ、チャンスを自分の後継者と考え始め、妻がチャンスに惹かれ始めるとそれを黙認どころか奨励し、はたまた自らが友達で相談役である合衆国の大統領に紹介し、自分と同じようにチャンスの言葉を聞くことを促し、その後人生(そして死)の意味がまるで見つかったのように安寧な死を迎える。
その後はブラックジョークとも禅問答ともとれる展開。亡くなった老人の葬式で、大統領のお悔みのスピーチの間―ここでこの映画の売り文句にもなったlife is a state of mind(人生は心の持ちよう)という言葉がお墓の石碑、そしてそれを大統領がスピーチで引用する―彼に見切りをつけた有力者たちが大統領の首をすげ替えることをヒソヒソ話し、後継者にチャンスの名を挙げる。その頃チャンスは散歩をし池の上を軽々とかつての主から拝借した出で立ち一式の姿で歩き去る...
この長いあらすじでわかっていただけるかもしれないが、さしあたってドラマがあるわけではない。強いていえば、チャンスの知的限界への誤解から生じるドタバタ劇があり、そのドタバタ劇は観ているものを楽しませる。その元となる誤解に気づかない、あるいは気づきながらも疲弊しきった八方塞がりの社会の救済をピエロに賭ける、どちらにせよこの映画は主人公チャンスをあたかも賢人と扱う社会的に成功した人たちの愚かさを描き、密かな毀笑を誘う。いかにも1970年代のお洒落で皮肉の効いた風刺コメディだ。
力への意志の瓦解
六度のオスカー候補になった撮影監督キャレブ・デシャネル(Caleb Deschanel)****のニュアンス豊かな映像は素晴らしいがセンスの良さだけで特筆すべきこともないこの映画をなぜ取り上げるのか、と聞いてくる向きがいると思うが、それは死にゆく大富豪メルヴィン・ダグラスがまさしく1970年代の傷ついたアメリカを象徴していると思えるからだ。
この大富豪は鉄鋼王カーネギー(Andrew Carnegie)や鉄道王モルガン(John Pierpont Morgan)のようにアメリカを作ってきた男である。彼らは西部にて、インディアンと勝手に呼んだ原住民はもちろんのことバッファローをも虐殺しながらManifest Destinyなどとうそぶきながら略奪を繰り返しアメリカを我が物とし、その後もwhite man's burdenなどとのたまいー言ったのはイギリス人の詩人キプリング(Rudyard Kipling)だけどー大陸の彼方まで進出した連中の同輩だ。もちろんその後はご承知の通りこの傲慢なアメリカは極東の沼地の闇の奧(Heart of Darkness)に絡み取られ、その飽くなき力への意志は挫かれ、気息奄奄となる。この息絶え絶えのアメリカにこの映画の中で死に際にいるメルビン・ダグラスに重ね合わせてもあながち牽強付会とも言いがたいのではないか。
そう、この映画はその物語自体で、世界一の大国と自認しているアメリカの大統領が「不能」で思い煩い、政治を徒疎かにしたり、愚民化装置のようにテレビが垂れ流しについているところを表すことによってアメリカを揶揄しているのであるが、それと同時に死にゆく大富豪に当時のアメリカの姿を重ね合わせている、と思わざるを得ないのである。チャンスがテレビのコマーシャルのキャッチフレーズを受け売りしたり庭師として園芸のことしか語っていないのに、大富豪がそれを誤解しそこに含蓄を見出すのは、まさしくアメリカの支配層が現実—ヴェトナム、ウォーターゲイト、経済停滞による人々の厭世観—をから目をそらし、そこから乖離していることを示している。
だがそれと同時に、この死の床に伏す老人は力への意志に盲目的に従いひたすらより多く、より高くと垂直的に自己を拡大していくことの限界を感じ—だって死が間近だから―、さらにその有限性への意識が折り畳み込まれるように自分の内部を照らし出し、死に行く存在として自身の有限性、つまり人の生の現実に直面したのではなかろうか。それでも、というかだからこそ、死の間際に彼は彼のやってきたことを資産高や従順な部下の数ではなく、なにか普遍的なものにつなぎあわせようという衝動にかられ、チャンスにそれを賭けてみようと思ったのではなかろうか。しかしなぜ知的に限界があり、徳が高いともいえないチャンスなのか。
有限の超え方
有限な存在がその有限性を超えることなんてできるのか。どんなに巨大な富を築いたところどこまで行っても有限でそれはしょせんこの世のものにしかすぎない。お金はあの世には持っていけない。とは言え神様なんかとっくに死んでいるので、金を超えるもので「お前の人生には意味があった」なんて言ってくれるものもいないことは十分承知だ。だからこそこの世にいるんだかいないんだかのチャンスが必要なのだ。テレビのコマーシャルのキャッチコピーであろうと園芸の話であろうと普通の人の口から発せられればそこらの陳腐な言辞か植物に関する便利な知識であるが、意味があるのか全くのナンセンスなんか分からないチャンスの言葉には、こちらから意味を充填するしかないのである。
力への意志は飽くなき征服の原動力であった。それが征服することが不可能になった老人は、初めて自分のものとしてなにかを占有するのではなく、意味があるんだかないんだかのものに対してこちらから意味を差し出して、初めて取り換え不可能な自分だけに固有な、したがってこの世のものでありながらこの世からはみ出る(超える)普遍的なものに漸近したのかもしれない。
ここはもう少し敷衍した方がいいかもしれない。大富豪であり、世界一の国アメリカの大統領選出でもキングメーカーと君臨できる彼はこの世で最強の存在かもしれない。しかし死はそんな最強な存在をも無限に拡張することを禁じ、ありきたりの生でしか過ぎないという真理を容赦なく突きつける。だがこの世の存在だかあの世の存在だか分からない曖昧なチャンス—もちろんそれはチャンスが知的障碍者であり、平均人だったら恥ずかしくて言えないことを言うのが理由なのだが―の場違いなテレビの受け売りや園芸のお話しに大富豪自らが積極的に意味を付加することによって、すなわち他人のものを取るのではなく、自らが意味を与えることによって、それが曲解、誤解であったとしても、というかむしろそうであるからこそ、そこだけの固有の意味が生成され、死によって突き付けられた自らの有限性から—ほんのわずかだけかもしれないが—一瞬だけ浮上でき、よしんば自らが永遠の存在にならないにしてもその普遍的な世界を垣間見ることだけは出来るのかもしれない。それは死に回収される凡庸な生ではなく、固有な生を生き抜く生なのだ。
結局彼のようなアメリカ人男性を動かしていたのはManifest Destinyとか自由社会の擁護というきれいごとに糊塗された禍々しい力への意志だったことに気づかされ、それとは別のものに存在の確かさを探ったのが、セヴンティーズだったのかもしれない。それは社会運動になりづらくまた金まみれになるわけではないので一見何も起こらなかったようだったが。
もちろんチャンスの言葉は、はたから—つまり観客から—見ればテレビ番組の愚劣な物言いの繰り返しか彼の仕事の園芸のこつぐらいで取り留めないものだ。そしてチャンスのその意味のないような言葉を大富豪が過剰に読み込み、それに振り回される周りの凡人たちを小馬鹿にするというのが映画のとりあえずのテーマで、それを再確認するように仰々しく石碑に刻んだlife is a state of mindという言葉を最後に映すが、映画は制作者のそのような小賢しい意図を裏切り、凡庸なものを過剰に読み込むことによって凡庸さを超える機会(=チャンス!)があるという大仰に言えば存在論を示しているのである。そして最後にもちろん観客をからかうためにチャンスを池の上を軽々と歩かせるが、少なくとも僕は、積極的にこのからかいに甘んじると言うかチャンスが此の世からちょびっとでも浮き―つまり彼岸にも通じ—、限りある生から超越とまで言わないが横滑りぐらい出来る希望をこの世に与えたのではないか、とメルヴィン・ダグラス演じる大富豪と意気投合したいのである。
死の予感と曖昧さ
人は不治の病または老齢で余命いくばくもなくなると、人生の濃度が高まるときがある。存在を保証すると思われたカネや地位は意味を持たず、存在の確固たる根拠の不在を痛感し、そこに自らが意味を充填させて行く。畢竟それは多義的で曖昧にならざるを得ない。1970年代のアメリカは瀕死の状態であった。アメリカもちょうどこの映画の大富豪のように力への意志による拡張を破棄し、意味を充填させ、生の濃度を高めようとしたのであろうか。前述したRoe vs. Wadeは確かにより高くという垂直的拡張ではなく生の質的充填であり、もしかしたらこの時代アメリカ自身はその存在において初めて自身に懐疑を抱き、弱さを意識したのかもしれない。韜晦ないあからさまな攻撃性(gung ho)を表すことの恥ずかしさ。少なくともそれまでの拡張一辺倒の自己への懐疑、逡巡、という曖昧な態度が新たな自己像を探ったのではなかろうか。それが『ゴッドファーザー』や『タクシードライバー』という映画史に残る映画はもちろんのこと、この映画『チャンス』を代表するハル・アシュビーの一連の映画、つまり1970年代のハリウッド映画が示してきたことなのではなかろうか。つまり、アメリカのひいては世界の在り方を問うことを。
日は沈み、あえぎ戻り、また昇る
歴史は堆積もするが褶曲もしまた断裂もする。1970年代の存在論的曖昧さは一過性のもので続かなかった、と言うのが言い過ぎならば、後退してしまった。他人の死は自分の死ではないし、ましてやある世代の衰弱は次の世代の死を意味しないということか。
70年代の曖昧さの揺蕩いが失せ去ってしまったのがよく観察されるのがまたしてもハリウッド映画である。1970年代のハリウッド映画は上で語った『チャンス』のように確かに自己懐疑の曖昧さを積極的に表現するものが多くあったが、じつはそれと同時にその後の大ヒット映画主義のシステムを作った映画があった。『ジョーズ』と『スターウォーズ』である。大ヒット映画主義とは今となっては当たり前だが、テレビなどでの広範囲の広告、数多くの映画館で封切っての話題作り、続編を作り作品のフランチャイズ化、派生商品とのクロスマーケティング。1960年代後半の映画史の転換期について書いたことを思い出して欲しいのだが、1970年代のハリウッド・ルネサンスは決して若い作り手の芸術性の自然な発露の結果ではなく、いくつかの要素が偶然に重なった結果で、何よりも観客は若者が多いという市場調査の結果、若い作り手による制作方針に舵取りをした映画会社の幹部の判断に負うところが大きい。『ジョーズ』と『スターウォーズ』はかくして映画を若者が自らの感性で探った作品を堪能するものから、老若男女問わず、すなわち大衆が大量消費する商品—filmed entertainment—に変貌させたのであった。
パンとサーカス
これと軌を一にするように政治の世界においても曖昧さを許す寛容さが尊ばれなくなり、ちょっと前までその実践により世界を閉路に追い込んだことがまるで選択的に忘却された形で旧態依然の攻撃的な保守的価値への回顧が顕著になった。政治とは社会正義の実現を目的とするが、「社会的なるもの」という自分や自分の知り合い以外の抽象的存在への戒律でも道徳法則でもないそれこそ曖昧な配慮が社会の平面から消えると社会的正義の追求は独我論の閉路に陥り、畢竟政治はヘゲモニー争いと化すのである。その様な状況においては政治は一部の利害を持っている人と政治を特に必要としない中産階級の無関心によって成立するようになる。政治によって決定された政策が行政によって施され、それによって生きるか死ぬかの立場にいる人々の生は良くて翻弄、大体において蹂躙されるのである。
でも古代ローマから言われているじゃないか、パンとサーカスって(panem et circenses)。技術革新と低賃金によってまだ成長の余地があった日本を例外に1980年代の先進国はもはやパン、つまり経済的繁栄を大衆に提供することは不可能になってしまっていた。ではサーカス、見世物は?それがハリウッドが提供する娯楽商品化した映画でそこからの派生商品の最たるものがロナルド・レーガン(Ronald Reagan)だったのである。これこそ牽強付会な理屈であろうか。でもサッカーぐらいで、大掛かりのサーカス(娯楽)を与える才覚と余裕がなかった他の先進国ではイギリスの数度の南ロンドンのブリクストンの暴動、その後テロの温床になったこの時期から荒れ始めるフランスを見るにサーカス不在による統治不可能性という対偶証明になっていないであろうか。
レーガンはカリフォルニア州知事を務めたヴェテラン政治家であったが、それは前面に出さず、ワシントンのよそ者、つまり政治の部外者のように思わせ、何よりも往年のハリウッド(B級)映画のスターの精力旺盛さを、20年前の大統領のケネディ(John Fitzerald Kennedy)より先に生れ(レーガン:ケネディ=1911年:1917年)、就任してすぐに70歳になるという高齢であるにもかかわらず、醸し出し、『チャンス』が封切られた年に大統領に立候補し、翌年1980年に見事にその演出は成功し、圧倒的な支持で大統領になった。
無知蒙昧で有為な英雄
レーガンは、ハックルベリー・フィン(Huckleberry Finn)というその時代犯罪であった脱走奴隷ジムを助け、様々な社会的問題に直面し、それらを切り抜けるるという倫理的多義性(moral ambiguity)を生きるアメリカン・ヒーローの雛型よりも屈託ない無垢なトム・ソーヤ―(Tom Sawyer)から続くアメリカ人男性の系譜にいて、それが80年代から定番になったルーカス・スピルバーグフランチャイズのヒーローと重ね合わせ見られ、その楽観的な外見と活力は疲弊したアメリカを救うように見られた。経済に関する彼のレーガノミクスに関しての評価は上述の通り、後世からみれば玉虫色であるが、株の盛況もあり、当時は復活したように見られた。それより何よりも彼がB級映画俳優時代以上にうまく演じたのは外交すなわち軍事に関してで、ソ連に肩を張り、1970年代のデタント(冷戦の緊張緩和、détente)の戦略的な曖昧さから打って変わって、ソ連を旧弊な宗教的価値観をこめて「悪の帝国」と呼び、一騎打ちの雰囲気を作り、具体的には財政を圧迫する高価な爆撃機B1を生産し、はたまた法外なミサイル防衛(Strategic Defense Initiative)の構想を打ち出し、その荒唐無稽さから、スターウォーズ計画と揶揄されたのであった。まさしく1970年代に疑わしいものとみなされた単純な好戦的な態度(gung ho)の復活であり、冷戦の緊張を高めたけではなく、アメリカが自分ちのの裏庭と思っている中南米—グレナダ、ニカラグア、パナマ—に侵攻した。
もちろん時代の変遷に敏感なハリウッドはその好戦性の時流に乗って『トップガン』(Top Gun, Tony Scott, 1986)や 『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』(Heartbreak Ridge, Clint Eastwood, 1986)など1970年代の『マッシュ』(M*A*S*H, Robert Altman, 1970)、『帰郷』(Coming Home, Hal Ashby, 1978)、そして力への意志の冒険主義の倒錯を残酷なまで描き切った『地獄の黙示録』(Apocalypse Now, Francis Ford Coppola, 1979)と打って変わってニュアンスが全くない子供っぽい英雄崇拝の映画をつくるのであった。
見いだされる時
時を早送りして2024年、今。パンは相変わらず配らないどころか落ちてくるパンくずを拾って食えと言うのが当世の倫理―トリクルダウンってやつね―。そのかわりサーカスはますます盛んになり、『チャンス』でさんざん馬鹿にされながらもいたるところで見かけたテレビはその後猖獗を極め、この映画公開時は居間または寝室あるいは贅沢なうちでは小型のをキッチンに置くぐらいであったが、この箱型の電信受信機はその後変幻自在を遂げ、壁一面に広がるわ、名目上は電話ながらも片手に納まるぐらい小型化し日常のあらゆる瞬間に入り込むわ、しかもインターネットを通して受信だけではなく、送信できるようになり、テレビという箱は愚民化装置と軽蔑の対象であったが、その映像機能が日常生活の様々な領域に侵食した現在、図らずも大衆とはもともと愚民であったのではないか、と思わせてしまった。
政治もそのテクノロジーの進歩に合わせるようにそれ自体がサーカスすなわち行政手腕など二の次で見世物の能力が―それこそ1980年代のレーガン以上に―問われるようになった。熟慮、対話、宥和をもって玉虫色の妥協という1970年代主流であった民主主義は非効率であるためもはや贅沢品で、今は政治家たちは手っ取り早く友/敵に別れ、ヘゲモニー争いに勤しみ、いかに目立つように振舞うかが全面化し、それを小さな画面で見世物として楽しむのが政治への参加になってしまった。
政治は具体的には行政を通して―納税、補助金交付など―わたしたちに接近するがそこでは本来個別の対応が必要であるはずだが、政治が見世物に専心し、行政をないがしろにしてしまったからか、行政にも採算の概念が導入され、生活に必要な公共的便益も私企業からの商品の消費にいつの間にか変容し、消費者コールセンターよろしく録音メッセージで対応されるが、皮肉にもそれが私企業よりも翻弄されることがそれこそグローバルな普遍的体験となってしまった。
資本主義が停止する危機
1980年代から顕著になったのはマックス・ヴェーバーにおいて資本主義の原動力であった勤勉な市民という理念型(der Idealtypus)が過去のものとなったことで、しかるに現代の資本主義では国境を簡単に超えインターネット上の情報網における評判と株式市場とつなげ、利益をあげることが可能な才覚と運そして図々しさを備えた一部の連中のためにあり、機能している。もはや国家は国民を必要とせず、賢くネットを利用して富を作ってくれる頭脳労働者がいればいいのである。だからこそそのような新しい経済で用無しになった、単に先進国の国籍を持っているに過ぎないものは移民を嫌う。
まぁ、ここらへんでよそう、ひねた高校生のような聞いた風な現代社会批判は。『チャンス』に戻ろう。大富豪は確固たる自信を持って世界を征服し、アメリカを作って来た男だ。その男が死を目の前にして確固たる自分というものがまやかしと言わないまでも、少なくとも崩れて行くことで自身の存在の有限性を感じ、傍から見たら滑稽に見えるぐらいチャンスにこだわり、彼のこの世にいるんだかいないんだかの彼岸性に有限性を超えることを見出し、自分が今まで有限性の勇者であったことから変わろうという自己懐疑するところに当時の瀕死のアメリカを重ね合わせ、『チャンス』のような自己懐疑をテーマに映画を作る1970年代のアメリカ自体が力への意志の表れである征服する行動主義に距離を置くような社会に変貌したのではなかったのか、と問いだし、その次の世代はそれに対して弱体化した自己を認めず、反動的に力強い自我を追って来たことを見てきた。
ところで21世紀において私たちはまだ世界の地平線が無限に伸びることができると思い、個人の限界―死―はともかくとして人類全体の有限性は等閑視、あるいは英語でよく言うように砂に頭を埋めて考えないようにしている(bury your head in the sand)のではなかろうか。世界一金持ちで世界的掲示板を運営している人物は最近「私たち」の最大の夢は天王星に宇宙船を送ること、とうそぶいていて、1960年代よろしく人類が無限に拡張できる口ぶりだ。ところが人口の高齢化による素朴な生産性の低下とそこから生じる今まで顕在化していなかった家族での新たな問題、また当たり前のように異常気象が起きていることから環境問題の深刻化、つまり私たちの存在の基盤である地球自体の限界が来ているのではないか。
僕が心配しているのはこれらは全て資本主義が機能しなくなる可能性を内包しているということ。資本主義は確かにしたたかで強健(robust)であって、風力に限界が来たら火力、そして原子力、あるいは物々交換から貨幣、約束手形からクレジットカードと常に自己を元に(資本にして)自己を超え、拡張して来た。何でも飲み込み自己を拡張する運動、それが資本主義だ。でもその運動は外部を飲み込みことによって現在から未来へ自己投機の契機が無ければストップしてしまう。
そう、社会の高齢化、環境破壊はもしかしたら無限に増殖すると思われた資本主義をストップさせてしまうのではないか、という恐怖が僕を襲う。人類及び地球の衰弱は今までのように他人のものと等閑視することができず、つまり刷新のために征服し、飲み込んでいた他者自体が消滅する段階に来ているのではないか。ある個人だけ、ある世代だけではなく人類全体の黄昏が来ているのではないか。言い方を変えれば哲学的あるいは数学的な概念としての有限性以上の有限性、つまり現実の人間全体の存在に関わる有限性に達してしまっているのではないか。それは飲み込む他者がいないことより資本主義の死を意味するのではないか。そんな時、力への意志の発露として他者の物象化、征服、飽くなき自己の拡大という旧来のやり方に活力を見出しそこに戻ろとする運動―Make America Great Again―で対処できるのであろうか。自己増殖のために飲み込む他者がなくなり、自己だけに対峙することになりつつある今、1970年代の最後の年に出来た『チャンス』being there、つまりそこにいることは気の持ちよう(life is a state of mind)とうそぶいて曖昧な存在として生きていくのも生き延びる戦略としては悪くはないのではないか。
脚注
年配の方はお気づきだと思うがこの文章は山崎正和の1970年代の論考集『曖昧への冒険』(新潮社)から着想を得ました。自我の輪郭がぼやけ、時代が単一の表題で捉えることができず曖昧に人々に映ることを氏は積極的にとらえ、新たな自我像を提示したのでした。
*『ジョーズ』でサメが現れ浜辺がパニックに陥るが、それを表現するために砂浜に座っているブロディ署長をクローズアップしていくードリー・ズーム・ショットーは監督のスティーヴン・スピルバーグがアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)の『めまい』(Vertigo, Alfred Hitchcock, 1958) からとったものである。このようにしてこの世代の映画制作者は前世代の映画を見て育ったのである。いまはこの技法を『ジョーズ撮影』(the Jaws Shot)とも言うようである。
**この映画の原作及び脚本がジャージ・コジンスキー(Jerzy Kosiński)によって書かれたことは敢えてこの文章では触れない。この20世紀最後のペテン師と言ってもいい人物で―成人してアメリカに亡命し、大人になって英語を覚えた割にはちゃんとした英語で小説を書いたのでゴーストライターがいたのではと疑われ、さらにその少年としてのホロコースト体験が捏造ではないかと疑惑が湧き—、この人に関しては別の独立した文章はおろか本が必要だと思うので。
***同様な映画作家にAlan Pakulaがいる。またこれを書き始めた一年前2023年の5月に早稲田松竹で、この作品は上映されなかったが、ハル・アシュビー特集を組み彼の映画を上映していたことを知る。
****Wikipediaを見ると彼はこれまた1970年代、特にその転換期の1973年—アメリカ軍のヴェトナム撤退、第四次中東戦争とオイルショック—を描いた『あの頃ペニー・レインと』(Almost Famous, Cameron Crowe, 2000)の主人公のお姉さんを演じたゾーイー・デシャネル(Zooey Deschanel)のお父さんのようである。
これを書くのに、David A. Cook, ed., Lost Illusions: American Cinema in the Shadow of Watergate and Vietnam 1970-1979 (History of the American Cinema vol. 9), University of California Press、及びDonald T. Critchlow, American Political HIstory (A Very Short Introduction), Oxford を参考にしました。
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