『東京暮色』
今年使っている、小津安二郎のカレンダー(去年の末にある先輩から頂いたもの)。月毎に小津映画の場面がイラストと実写で交互で現れるという、月初に捲るのが楽しくなるカレンダーなのだが、 六月と七月が『東京暮色』だった。
昔観たときそんなに良いと思わなかったが、久々に観るとしばらく『東京暮色』で頭がいっぱいになった。
”絶望”が”絶望”であるのは、自分にとっての絶望が世界にとっては絶望ではなく、あくまで自分にとっての絶望でしかない、という理解されない辛さにある。ひたすらそれを感じさせる映画で、とにかく辛い。
『晩春』『麦秋』『東京物語』の紀子三部作の、「良い親・良い娘」に比べて『東京暮色』は、悪人と呼べるほど悪人ではない人たちの人間らしい小さな悪意がずっと見え隠れして、そのリアルさは、むしろ紀子三部作(特に原節子の良い娘像)は、あれはもう虚構だよなと感じさせるくらい。
小津映画独特の棒読み台詞も、会話がずっとすれ違っていて、本心や核心に迫らないし迫れない『東京暮色』に合っている気がする。
夫とうまく行かず父(笠智衆)の実家に逃げている長女(原節子)。
父が夫の家を訪ねて理由を聞こうとしても夫は話をずらす。
また長女に、夫と会ったことを話そうとするとこちらも話をずらす。
父の「こんなことなら佐藤と結婚した方がよかったな」という台詞に、なんちゅうこと言うんやと思いつつ、これは、原節子が好きな男と結婚できなかった紀子三部作の『晩春』の裏側、B面的な物語でもあるなと思う。
自身も妻に逃げられ、その事実が遠因となって、また全てのすれ違いと周囲の人間の無意識の悪意によって、次女との関係が悲惨な結末に向かうのはショッキングすぎる。悲劇。
雀荘で次女の妊娠の噂話をする男の語り口が、本人は悪いと思っていない軽い陰口なのだが、この会話の中の”ポンポン”という言葉の響き(お腹のポンポンと麻雀用語の言葉遊びだろう)が笑いを誘う面白さで、これがまた次女の絶望と、それを理解する気もない周囲のギャップを感じさせる。
自分にとっての絶望が、世界にとっては別に絶望ではない、と、感じさせるのは、この映画のBGMもそうで、父が娘の夫の家を訪ねたときのピアノの音、終盤のあのショッキングな出来事が起きるときの中華料理屋の外から聞こえる沖縄民謡『安里屋ユンタ』、そしてラストのこの映画の掛け違いすれ違いが行き着くところまで来てしまった駅の場面で学生たちが歌う校歌。違和感やギャップしかない、滑稽な取り合わせなのに、だから余計に哀しい。陰を生み出すために作られた場違いな光。
小津映画の中では興行的に成功しておらず、批評的評価もあんまり高くない映画らしいですが、もっと観られてもいい映画だと思う。
あと主演の有馬稲子がお洒落で可愛いです。