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川越さんぽ!中院から

川越さんぽ!

今回 このコース!

中 院

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中院から仙波東照宮と喜多院までの超短距離さんぽ

門前は 埼玉県立川越総合高等学校
( 僕らの時代だと県立川越農業高等学校)

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学校と道を挟んで向かいにあるのが!

天台宗別格本山 中 院

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830年 伝教大師 最澄の弟子
慈覚大師 円仁は芳道仙人の古跡であった
仙波の霊場を天皇に奏上
淳和天皇の勅許により 
星野山無量寿仏地院(中院)を建立した

幾多の栄枯浮沈を繰り返すが
永禄年間(1558年-1570年)には 無量寿寺
北院・中院・南院の3院で中心的な役割を果たしていた


1633年 中院の場所に仙波東照宮が建てられ
中院は南へ移動して 南院は明治の初め頃 廃院となった

僕の思う 中院は 春の枝垂れ桜と茶畑!
僕が上京するまでは境内に茶畑があったのを憶えている

ちゃんとした説明は Web で!そんな時代です

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中院 本堂

1638年(川越大火)で焼失して
翌年 1639年に境内地内を移動して現在地に落ち着きます

1733年 本堂を再建しました

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1976年天台宗務庁より
【天台宗別格本山特別寺】の称号を下附されました

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釈迦堂

この左側は墓地になります 右側は中院歴代住職の墓地

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2012年 薬師堂を復興

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中院本来の姿 本堂・釈迦堂・薬師堂と三堂が揃いました

中院の鐘楼!耳をすませばウチでも聞こえる 筈

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緑の中に鐘楼 夏ですね〜ぇ!

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島崎藤村と中院

「島崎 藤村」
中学生時代  親友 内田が言い放った

シマザキ フジムラ」には
(苗字二人羽織)

笑わない事で有名な現代国語の先生から
爆笑を奪う程の 笑撃 発言だった


クラス全員から尊敬に似た眼差しを集めた 内田!
しばらくの間「トーソン」とあだ名で呼ばれていたっけね!



島崎藤村の義母のお墓があります 

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大文豪 島崎藤村 と川越については下記サイトが詳しいです

引用 川越 水先案内板 さん ありがとうございます🙇

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不染亭!

不染亭(ふせんてい)は島崎藤村が 義母 加藤みき の為に
昭和4年 川越・黒門町(現 新富町)に茶室として建てたものでした

平成に入り その場所にマンションが建設される為
川越市等関係者の尽力により藤村ゆかりの中院へ移設されたました

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狭山茶発祥之地!

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川越市の河越茶=狭山茶発祥の地だと云う
入間市は生産地や量等 入間茶=狭山茶だと云うし
狭山市は狭山茶って呼ばれるから狭山だ!と云う

どーゆーのー?Do you Know.,....?


夏の 中院 庭園

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約1200年前 伝教大師最澄の教えを受けた
慈覚大師円仁がもたらした法灯は
今もなお68代続く現住職に引き継がれています

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境内の緑も濃くなっていました

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境内北側の車寄せへ続く路!よく見てください

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瓦を縦に埋設した凄い通路になっています

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ウチでは「赤門」と言うと東京大学では無く
中院の「赤門」だと90 %思う!

中院から仙波東照宮へ向かいます

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その 途中にあるのは

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南院 跡

補足説明は カワゴエールさんに お願いします

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南院(多門院)跡地!

そこに伝わる あんたがた何処さ 

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幕末 薩長連合軍が倒幕の為 川越の仙波山に駐屯

その時に 地元の子供たちが兵士に

「あんたがたはどこから来たのさ?」
「肥後から」
「肥後ってどこさ?」
「熊本のことさ」の問答から生まれ
後に手毬唄として歌い遊ばれたと云う!

*諸説あるそうです

川越には三芳野神社の【通りゃんせ】伝説等
童謡 発祥の地と言われるが
他県と競合する事が多く決定打に欠ける残念さは拭いきれない

若い頃 僕の(川越嫌い)の理由のひとつでもある

仙波東照宮

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仙波東照宮 随身門

ウチでは ここの赤門は中院の赤門の次席

これから仙波東照宮へ行くのですが・・

記事が長くなってしまうので

続きは次回の

川越さんぽ!


ここまで読んでいただきありがとうございました。

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