禁酒という異端思想
怖ろしい体験をした。
いつの間にか体の自由が奪われ、暗い迷路をさまよっているうちに、精神は完全に自分のものではなくなっていた。
意識すらとんでしまい、体は無様に床に投げ出され、心配する家族が見守る中、私は狂ったようなたわごとを吐き続けていた。
私の身に一体何が起こったのか?
何かに憑りつかれてしまったのだろうか?
何のことはない。
ただ大酒を食らい、泥酔して、ひっくり返っていただけの話。
私は「お酒」という悪霊に憑りつかれていたのだ。
めったに帰らない実家でこのような醜態をさらす始末。
これはいけないと大いに反省。
酒にまみれた後の地獄のような気分と闘いながら、私は一冊の本を購入した。
こんな本を買おうとしたこと自体、おそらくまだ頭が狂っていたのだろう。
本書を読み進めると、「アルコールは薬物」だの「肉体面ではメリットがゼロ」などと物騒な言葉が並んでいる。
この著者はお酒に何の恨みがあるのだろうか。
お酒を貶める失礼極まりない物言いではないか。
なんでも、アメリカでは「酒を飲まないことがムーブメント」になりつつあり、日本でも「ゲコノミスト」などという、お酒を飲まない生き方を楽しむ会が現れたりしているそうだ。
お酒を飲めても「あえて飲まない」という価値観。
「飲まないのが正義」だなんて、なんという異端思想。
お酒を飲まないことのメリット、飲むことのデメリットがこれでもかと書かれており、「あなたはアルコール依存症の予備軍かも!?」と、危機感をあおるような主張が目白押し。
酒飲みを改宗させるべく、洗脳を計画した本であることは疑いない。
本書を読み切るころには、「酒を飲むことは罪悪なのでは?」という思想が私の中に芽生え始め、挙句の果てには、「今日から禁酒をしてはどうか?」という、狂気のようなことを考え始めていた。
恐るべき洗脳効果である。
さて。
本当に禁酒をするべきかどうか。
そして禁酒をするのなら、周りの人間に言うべきかどうか。
お酒が好きで、好んで飲んでいるのに、あえて飲まない生き方をするなんて、信仰する宗教を変えるくらいの価値観の転向が必要ではないだろうか?
たとえるならば。
「私は今日からイエス・キリストを信仰します!」
と家族の前で高らかに宣言するようなもの。
キリストがありがたいもので、尊い存在だということは皆わかってはいるが、そんなことを急に宣言すれば
「この人はまだ頭に酒がたまっているのかしら?」
などと疑われ、家族から冷ややかな態度をとられるのがオチである。
だから禁酒を始めるのならば、こっそりと「隠れキリシタン」のように始めるのがよい。
そして無事にお酒から完全に解脱できたときに、満を持して信仰を告白するのである。
それでも。
大事な人のお祝いの日、旧友と再会したとき、心からうれしいことがあったときなど。
そんなどうしてものときは、お酒を飲むことをとめることはできないだろう。
どうしても飲まざるを得ないときがあれば、隠れキリシタンの装いを外し、踏み絵をどかどかと踏みながら、その日限りのバッカスの神を祝福したとしても罰は当たるまい。
その代わりに、私は自分の体と精神の自由を取り戻すため、日常生活の中ではお酒を祀ることはもうすまいと、心に誓ったのである。
今日から隠れキリシタンの始まりである。