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平等に生きるための考え。気付いてないと手遅れになる間違った解釈

『すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。』
日本国憲法、第14条の一文であり、憲法によって「平等」が保障されている素晴らしい国である。

みんなが同じように教育を受けられるし、なりたいと思った職業に就くことができる。
誰にでも平等に選択する権利があり、否定する人は誰もいない。

なんて小難しい言葉から始めてみたけど、ちょっと硬すぎたかなw

でも本当にその通りで、誰にだって同じようにチャンスはあり、そのチャンスを掴めるか掴めないかだけが人生を左右する。
そんな「運」で人生決まるのかって思った人は、残念ながらその通りなんだ。ただ勘違いしてはいけないことは「運」とは「異常行動」からしかうまれにくいことを理解してほしいかな。この話はまた別の章でお話しするね。

ただ、世の中に対して私が強く想っていて、そろそろ限界にきていることを一つだけ変えなきゃいけない、変わらなければいけないことをあげるとするなら、今の世の中は合理主義に偏りすぎているという点だ。
「評価」というのは常に合理的なことであり、その本質は「お金になること」であることが多い。優秀な人や能力がある人とは何かを考えた時に人に伝えられる能力があったり、人を巻き込める力、人を集めることができること、人を動かすことができるということを考える人が多いように感じる。

今頭の中にイメージした内容も含めて全てのコトはお金稼ぎにつながっていく。これが現代の根本的な考え方だ。
いかに優秀な人材を集めて効率よく稼いでいくか。かなり窮屈で余裕のない時代だともいえるし、お金稼ぎがうまいヤツらの独壇場と言ってもしい。

そんな時代でも果たして「平等」と言えるのだろうか?
何かをはじめる為には最低限の経済力や時間の余裕が必要であり、現代人のほとんどは「時間」と「お金」に縛られながら生きている。
そんな状況が本当に「平等」なのだろうか?

じゃあ「平等」とは一体何なのか、何をもって平等だと言えるのだろうか。

「平等」を考えるときに一緒に考えることが多いことと言えば「公平」であり、公平と平等を明確に分けて考えている人は意外に少ない。

平等とは:差別や偏りがなく、すべてが等しいこと
公平とは:かたよらず、えこひいきをせず、判断や行動が公正であること

ちょっと良く分からないよな。俺なんか学生時代ほとんど勉強してなかったから意味が分からないよ・・・。
じゃあよく見るこの画像から考えてみよう!

この画像を見た時にみんなはどっちがいいと思う。どっちの方が理想だと考えるのか。ほとんどの人は公平であり、私が世の中に感じている声も公平を目指せと言っているように感じる。それを平等という言葉にしてつたえている。
・・・やっぱり何回見ても悪意を感じるんだよな。


もう少し言葉にしてみるね。
➀ベースボール会場に行く(同じ手段だと仮定)
②ベースボールの試合を見る(同じ料金を各々が払ったと仮定)
③目の前の柵によって見れないから台を使う
④3人の兄弟?の身体(能力)の大きさが違う

この情報が今回の画像を説明・解釈するのに必要な情報だとしたときにどっちがいいと思うだろうか。
例えば、これを仕事だと仮定した時に、同じ会社に同じような手段で通勤して同じような時間で仕事をこなし、出した成果が異なっていても同じ給料しかもらえない「公平」と解釈することもできるような気がする。


能力がない人には多く与えて、能力がある人には少なく与える。
ごめん。ごめん。少し言葉がストレート過ぎたw
例えば、乗っている台が今ある環境だと仮定して、自分の身長を能力や努力だと仮定した時にみんなはほんとに許せるだろうか。

このイラストを描いた人の意図は分からないが、私はそう解釈してしまう。

《平等=同じ/過程》
《公平=同じ/結果》

要は前提を整えてからよーい、ドンとスタートさせること、そしてゴールまでのルートが同じであることが平等の本質であり、スタートがバラバラでもゴールを同じにすることが公平だと考えている。
100m走でもスタートするタイミング、そして走る距離が同じ=平等だから結果がどうなっても納得する訳で・・・。
今の日本が、現代人はどっちを目指す必要があるのだろうか。

そしてこの考えは資本主義と社会主義ともいえる。私自身、どっちがいいとか悪いの判断はできないし、する必要もないと思っているが、資本を持っている人がその資本を使ってさらに資本を増やすことは悪なのか?
それとも自分の資本を使って増やしたところで全て没収されて均等に配ることが正義なのか?

私は自分が持っている資本を使って人のプラスになることをやることが重要だと考えている。
しかし、ここに違和感を覚えた人っていると思う。私も違和感を覚えている一人だ。それはその「持っている資本」をどう得たのかという点だと思う。
自分の行動や能力によって得たのであれば、みんなも納得すると思うが親の七光りのようなもので得た資本には少し気持ち悪さを感じたりする。
(これは個人的な考えなので否定してもらっても構わないw)

そんなことを言ったって親や家族の反対、経済力の違いや才能の差によってできる事には限りがあるし、選択肢の幅が変わってしまうことは仕方がないことだと思う。
少し前に流行った言葉を使うのであれば、親ガチャ、地域ガチャに負けたから何もできないとかグズグズいう奴いたけど、親ガチャ、地域ガチャには負けたかもしれないけど、時代ガチャには勝ったことを理解してほしい。

私たちが子どもの頃、それよりももっと前の時代は情報が民主化されていなかったせいもあって自分が生まれ育った環境の中でしか将来を選ぶことができなかった。
しかし今はインターネットの普及によって好きな情報を鮮明に得ることができ、その情報はイコール、自分の選択肢になるということだ。
ここまで伝えたとしても、それでも自分には才能やスキルがないっていうヤツは、きっといると思う。

だから冒頭で伝えた合理的な考えに偏っているし、お金を稼ぐことを最優先している。今の時代、ゲームをやってるだけでお金になるし、人との会話をライブ配信すれば人は集まる。昔は遊びだと言われたことが現に仕事として成り立っている時代に生きていることに気が付いた方がいい。
そして、その考え自体が知識や表現力が必要な人にダイレクトに届けることができる時代になった。

そして「チャンスは減り続ける」ということを意識したほうがいい。
チャンスは平等に訪れると伝えたけど、平等に訪れるのは初めの一回だけであることがほとんどだ。それがある種の学校生活だったのかもしれない。
例えば、〇〇長や担当、クラブ活動や部活だって希望者であれば誰だって手をあげることができるし、やることができる。
それにも関わらず、やらないという選択をしたのは誰だろうか。自分に能力がないから?向いていないから?私よりも得意な人がいるから?

その選択一つで自分のチャンスを減らしている。
誰かに何かをお願いしたいり、誘った時に快く引き受けてくれる人、嫌々引き受けてくれる人、断る人がいたら次回以降、あなたは誰に声をかけるだろうか。
結果は言うまでもない。

チャンスは平等に訪れるけど、自分の行動によって減り続けるし、自分の行動によって増やし続けられる。
そして自分のチャンスが減ったことを実感した時にチャンスを増やしていった人のことを見て思うんだろうな。
すべては「因果応報」自分の過去の行動や選択、思考が今を形成している。
行動の幅の大きな要素は過去の自分の選択であり、過去の行動だということだと理解したほうがいい。
この話も別の機会にでも・・・。

SDGsの中にあるジェンダー平等が少し前にニュースになっていたけど、おっさんの身体で女性の心だったら女性の風呂に入っていいのかという問題。
この考えこそが公平の考えであるように感じる。別に女性の心を持っててもいいし、服装も行動もしていい。ただ社会で生きるならマナーは守らないといけない。マナーがあっての多様性だ。

「平等」と「公平」について日本人の9割がごちゃごちゃにして考えており、必要なことは自分がどっちを優先するのかを明確にしたほうがいいと思う。
大切なことは「自分が」という考えではなくて、どうすれば世の中が良くなるのか、時代が進むのかを考えたほうがいいと思っているし、時代が進んだ世界の方が「自分らしく」生きられる人が増えると考えている。
だからこそ、私は、私たちは今できることをやるべきだと思う。


最後まで読んでいただいてありがとーござい「まつ」。

いかがだったでしょうか?

この投稿は私の人生で感じていた違和感を言語化、方程式にしたものです。

この考えが全てではなく、目に触れたみんなの考え方の一つとなることが一番嬉しいと考えてます!

そしてコメント欄はディスカッションの場所として考えており、こんなことも考えらるんじゃないか?それは違うよね!など思ったことや感じたことを投稿して頂けるとありがたいです。みんなが自分らしく生きていけるように!私の経験が少しでもみんなのプラスになれば!!そして同じところに違和感を持った人たちで意見交換しても楽しいかなって思って。

今後も一つのテーマを決めて発信していきますので1mmでも興味がある人は「スキ」「フォロー」「コメント」をお願いします。

でわでわ!まつでした。またね。

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