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「写真表現の次を目指すときに考える事」(洋の極東の東端からギリシャ、ヨーロッパ、アメリカへの展開)
【行動計画の素案として】
その背景のメモ記述。(文章をまとめない段階)
【引用記事から考える事】
福岡氏の発言や研究などに、注視することが多いのだけれど、代表的な考察として有名な「動的平衡」などは、生命体の本質的な作用の基盤的な研究と見受けられるので、他分野の概ねすべての領域への展開の可能性を強く感じる事がある。
この記事には断定的な論調がコトバとして使われているけれど、彼の「知恵の学校」(YouTube)を見れば、そのような強い断定的なコトバはあまり使わないはず。その点をメディアの特性を勘案して受け取る情報を解釈しなければ、情報を誤認しかねないとも感じた。
この引用記事の最終段落に「20世紀の遺物になる気がします」とあるけれど、それは強いメッセージだともいえるだろう。
そこから本人の研究とは分野が違うが、他者がこの研究を仏教思想と関係付けて考える事もできそうだ。
それは、仏教思想が「生命の等価性」に意味を持つことを意識すれば、それと「動的平衡の生命論」とを並走させて展開することが期待できそうだと考えられる。
※仏教の日蓮派では生命論の基礎を六道から四聖を追加して(ポジティブに生命の実現可能性を担保している)「十界」という。そのひと段階かみくだいた「十界互具」(じっかいごぐ)という基本的な考え方がある。
生命の可能性の捉え方は個人的な解釈でいえば、生命として「動植物の別なく十界のその可能性を内包している」という最も仏教が東に到達した時点でのひとつの結論でもあると言える。
※六道(地獄、畜生、餓鬼、修羅、人、天)の生命の状態を表す概念、四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏)合わせて「十界」という。それぞれが流動的に変化し続けている。その変化のアベレージをどれだけ「四聖」に近づけるかという、現実的な取り組みが本来の日蓮派の行動規範だといえる。
「回想」
祖母が身延に行くときや、毎朝勤行を欠かした事を見たことがなかった蒲田での記憶(5歳程度まで蒲田育ちで祖父母によく育てられた)とともに、回想し整理することができる。
こういうコトバは、専門的な整理したのちに、一般的なコトバに置き換えたり、その都度の例示で示したりしないと、表現に適用する際に「それが世界の現在地にどのように寄与するのか?」という説得力を失う事が多いとも感じる。※今回はそれはあまり考慮できていない。
福岡氏の考察に立ち戻ると、本人の意図と異なる運用になる可能性があるけれど、彼の生い立ちから研究に至る背景、プロセス(文脈)を、確認することで「動的平衡」や、この記事にあるような研究から生命論を解釈することができるだろうし、近しい解釈を個人的にとらえる事は可能だろうと感じている。
【引用】「植物を動物の下位に置くことも間違っています。食物連鎖の頂点に人間がいるように見えますが、縁の下の力持ちである植物なしに、動物は生存できません。それに植物の化学合成能力はすごい。頭痛薬や麻酔薬など、人間に有用な薬品はすべて植物由来です。植物は、自分に必要ではない化学物質をたくさんつくってくれているんです。生命の歴史は闘争と競争の歴史で、利己的に振る舞った者だけが生き残ったという見方は、20世紀の遺物になる気がします。」【引用終わり】
日本の写真は西洋への視点を基本としているし、その写真表現での個別性や特異性にアプローチしている表現は多いと思う。土門拳の仏像もそうだし、高尾山の山岳信仰のモチーフ化も、ある種の日本の土着思想とそれが生み出す空気感を立ち現している。ただ、構造的な背景を基盤に持っておくことと、西洋の文脈にアクセスしようとするときに、どこで西洋の価値体系と接続できるか?という現実的なアプローチを考案しなければ、結果的にガラパゴス的な扱いとして海外からの興味としての扱いは受けられるがそれから先に入り込むことが困難なのではないか。
【表現の多文化圏への接続方法の素案(例示)】
仏教史から見れば、仏教はアレキサンドロス大王がインドに到達した時点からすでに、文化的な接続とギリシャ圏への還元を意識する必要があるし、モンゴル帝国時代にも、それがヨーロッパにどのような影響やレガシーを残しているか再確認する必要もあるし、インドからアジア圏全般にチベット経由にしろ、東南アジア経由にしても柔軟な方法論で文化基盤として成立していった背景や歴史を見つめる事で、「西洋との接続」「インドから日本までの広範囲をカバーする文化基盤」「インドから日本の最も東に到達した時点での変化の背景」と「インドでの基本理念と東アジアでの展開」の支柱をとらえていくことができる。
それを世界的な表現の文脈に(例えば写真領域ならベッヒャー派など)接続していくことによって国際的に「表現」として受け入れられる事もできるのではないかと考えている。
実際の殆どの表現分野の現場での前提は、簡潔に言ってしまえば「あなたのロールモデルは誰で、どんな表現ですか?」という事を云えないと、どの表現文脈を継承したり展開しようとしているか不明瞭で理解されにくい。
客観的にみられた時に「東洋で自前写真をやってる」という極論で相手にされないだろうとも。
なので、もう少し精査しなければならないけれど、仮に自らに置き換えていうなら。
【要素として】
・「技法としてはベッヒャー派の初期をベースにしている」
・「具体的に目指す表現の類似性として、リチャード・ミズラックの自然と人間の関係についてを現代に活かす目標がある」など。
・「アジア人としての現在から未来への可能性を表現する事」を仏教的な背景を意識して成立させる。
というように、明確な言語で自らの立地を明らかにする必要があるのは間違いないと思う。
そうでもしなければ、新興国であったアメリカ・ドイツなどが「文化基盤」として流通させた「写真表現・効果の世界的な観測(どれだけ自国技術文化の基盤として流通させた写真が、どこに、どのような効果をもたらしているか)、その検証、確認・研究対象としての回収(購入)」という構図から、抜けだす事が難しいようにも予測できる。
※写真を国外のアートシーンが購入するというのは、その文脈が多分に背景にあるということを意識する必要はあると考える必要はある。
【この一年ほどで特に記憶に残った表現の実際について】
(ヒアリングから)
実際に海外でアートを学んできた人に聞くと、概ね同じような情報を得る事ができる、「日本の写真を購入する理由は、写真文化がどのように世界に浸透しているか、それを確認するという動機によってアメリカなどに購入される」という趣旨だ。
【世界のアートシーン、写真領域での背景と意識】
そのような背景にある文脈は把握しなければならない。一方で表現の内心の強力な「構想や感覚的な体験」を有しながら、他方で世界の表現の構造をとらえて、その土俵に乗せる事も並行して考案しなければ、ホビーとしての写真で終わってしまうと感じている。
【生命論的な表現の断片的活用「都市の緑」】(添付例)
東京23区を歩くと、概ね「意図的か否かにかかわらず」緑地や植物、色彩で言えば「緑」をその環境の中で愛でたり、共生しようとしたり、ヒトと共に生存空間に共存している現場に出くわす。無意識にヒトは都市化のさなかにあっても、植物という生命体とともにある事を選択しているかもしれない。
その写真イメージにはかなりの案分で、その意図するか否かを関係なしにヒトと他の生命の共生がみられる(少しの例示)
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都市化という大改造のさなかにあっても、個々人のヒト本来の欲求として、植物との、またはその他の生命体との共存への意思を無意識化にもっているのではないか?