【039】ブッダの生涯-【15】(仏教哲学の世界観第2シリーズ)
初転法輪と中道、そして八精道
お釈迦さまが向かった5人の比丘のいる「鹿野苑」に到着し、彼らと再会しました。
かつてはお釈迦さまと共同生活を行いながら苦行をしていた彼らは、公卿の無意味さに気づいて去っていったお釈迦さまを苦行から逃げた落伍者として認識していました。
しかし、いざ現れたお釈迦さまの姿を見た彼らは思わず旅人をもてなす礼を尽くした挨拶をしてしまうのでした。
そしてお釈迦さまは自らを彼らの先生であると主張し、修行の本質を伝えるとして彼らに説法を始めます。
今回はこの、初めての説法である「初転法輪」の内容について解説されています。
ブッダの生涯15
https://youtu.be/EEM_5hobTVQ?si=HaX4n8Q_hDFVCSFQ
AIによる要約
学習した事
初転法輪
お釈迦さまは初めての説法を行うため、バラナシの鹿野苑にやってきた。
そこで昔馴染みの5人の比丘に説法を行う。
これを「初転法輪」という。
「転法輪」とは法の車輪を回す、という意味である。
車輪が回るというのは各地を統べていく(戦車や馬車による制覇)ニュアンスがあり、元は王様の武力による各地の征服を意味するが、
仏教の場合では「法」(=教え)という車輪が各地に教えを説いて回るという意味になる。
今回はその第一回目なので「初」がつき「初転法輪」と呼ぶ。
さて、その初転法輪ではお釈迦さまはいくつかの異なるテーマで説法を行なっている。
まず、最初に説いたのが「中道」である。
中道とはなにか
中道とは、仏道修行をする際の基本姿勢である。
どのような心構えで仏教を歩んでいくべきかというものである。
修行というとなりふり構わない厳しいものというイメージがあるが、そこについてお釈迦さまは、緩すぎるのもダメだが、厳しすぎるものもダメだとしている。
緩さに関しては
下劣で欲望のままに生きている人には近づくな
としている。
これは自分の物欲・所有欲にまかせた欲深い人に近づいては修行はできないとしている。
当然これは修行者自身にも言える。
厳しさに関しては
苦しさに執着する人には近づくな
としている。
辛く、厳しいことを我慢することが修行の本筋だと思っている人に近づいては修行はできない。
これももちろん修行者自身に対しても言えることであり、
厳しくすればするほど良い修行をしていると思い込むのは間違いである。
これらの話は弦楽器の喩えがある。
したがって、ちょうど良い緩さと張り調整することによって良い音色が出せるようになる。
このように、修行もまた、緩さと極端の厳しさの中間をとらなければ本当に良い修行の成果は出ないとしている。
これらは実際に修行をした経験のある者にしかわからない考え方である。
中道の具体的な内容、「八聖道」
中道の具体的な内容について問われると、お釈迦さまは次の段階の説法に入った。
それが八聖道(はっしょうどう:※八正道とも)の教えである。
八聖道とは正しい修行のあり方として8つのカテゴリに分けた考え方である。
これは修行における正しい生活規範・方針とも言える。
正見
「見」とは見解であり、仏教の教えに沿ったものの見方。(例えば「この世に絶対的な神が存在する」などは正見にはならない)
正思惟
正見に沿った正しい考え。正見に沿わない自分勝手な考え方や思い込みは正しい原因結果、因果則を見ることができず、間違った結果となる。
正語
正しい言葉。人を騙さないという意味も含む。正しく無い言葉は自らを歪めてしまう。嘘ばかりをついていると、嘘の世界が本当の世界に見えるようになってしまう。従って、何かを語る時は自分の心に対して正しい言葉を使う必要がある。
正業
正しい行い。
正命
正しい身の立て方。出家者であればお布施を唯一の食事とする。一般の信者の場合であれば商売を嘘をつかず誠実に行うこと。綺麗な生き方。
正精進
正しい努力。精進とは努力のこと。修行をするにしても間違った方法の努力をしないこと。正しい瞑想とお釈迦さまの教えを学ぶ努力。
正念
正しい念。現代でいうところのマインドフルネス。「常に念頭におく」ということ。
正定
正しい精神集中。お釈迦さまの教えに沿った集中をするということ。悪い目的のための集中は正しくない。悟りを開くという目的をもった精神集中が正しい
八聖道は細かいやり方というよりは、どのような姿勢で日々を送るか?という内実を語っている。
ここには修行としての厳しさはなく、根性論を語ってはいない。
強さではなく正しさ。
正しさこそが仏道修行の本質であり、八聖道に表されている。
そしてその原理が中道である。
感想
中道は理解できる。
ニュートラル…とは少し違う気がする。
中庸でもなくて、見えない柱の上に成り立つバランスという感じだろうか。
なんでも強制的に中間としてしまうと、それはそれで単純ではない人間や社会にとっては合わないからだ。
しかし、その見えない柱、八聖道でいうところの「正しさ」の基準がまだわからない。
「正しくあれ!」と言っても、その正しさの判断は誰がどのようにするのかが不明瞭である。
先日X(Twitter)でこのような会話をした。
(ごめんなさい。全然理解できませんでした!m(_ _)m)
今回の中道と八聖道とは根本的に違う話ではあるのだけど、何かしらの規範があり、(この場合は法華経?)そこに正しさの規定があったとしても、ケースバイケースで自分で勝手な解釈というのはいくらでも可能である。
初転法輪の時であればお釈迦さまが実在していたわけだから正しさに迷った時は本人に問えば良いだけの話だ。
しかし、現代においては正しさのバランス感覚は人によっても異なるし、律も多様化した世界において効力があるのかよくわからない。
結局のところ、あまりカチッとした正しさの定義はなく、なんとなくのフワッとした定義なのではないのかな?
あと、前にも書いたと思うけど、「厳しさ」の程度がよくわからない。
前にも苦行を否定したお釈迦さまのお話があったけれど、現在の滝行とか火渡り?とか千日回峰行とかは苦行に入らないのだろうか。
こういった修行が今回の話でいうところの正精進かどうかの基準が曖昧に思う。
次回は「ブッダの生涯16」 (仏教哲学の世界観 第2シリーズ)
初転法輪の続きとなります。
「中道」についてさらに詳しい解説がされています。