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目指すべきは「君子になった」ではなく、「君子になろうと常に努力し続ける」こと

中国古典が好きで、「論語」や「孟子」、「大学」などの儒教の古典の訳本や解釈本も親しむことがあります。そのような古典のなかでは、「君子」を理想の人物像として、「君子」とはどういう人なのか、について多角的に書かれています。
例えば、「論語」であれば、
 
「君子は義にさとり、小人は利にさとる」
(君子は正義を思い、小人は目先の利益ばかりを思う)
「君子はこれをおのれに求め、小人はこれを人に求む」
(君子は自分の身におきたことを自分の責任とし、小人は自分の身におきたことを他人の責任とする)
「君子はゆたかにしておごらず、小人はおごりてゆたかならず」
(君子はおおらかにしておごることなく、小人はおごっていておおらかではない)

 
などなど、とにかく「君子」とはいかにあるべきか、について多くのことが語られています。これらを読んでいると、「このような人物にならないといけない」と思いつつ、まだまだ至らない自分を反省します。
 
そのように読み続けるなかで、ある時からふと思うようになりました。
「儒教が目指している人生とは、実は「君子になった」状態ではなく、「君子になろうと常に努力し続ける」状態なのではないか。君子として求められていることが一時的にできても、人間はすぐに堕落し、小人になる。そもそも自分は「君子になった」と思うこと自体がおごりで、そんなに簡単には君子にはなれないはずである。」
 
そう考えると、古典に書かれていることが腑に落ちるようになりました。
君子として求めれていることが少々できたくらいで「できた人間」、「立派な人間」と思うのは、古典が目指している理想の人生ではないのです。どんなにできたとしても、まだまだ「できた人間」、「立派な人間」ではないと自覚し、更に高みを目指して努力し続けることが、古典が目指している人生ではないのでしょうか。
多分、死ぬまで完璧な君子にはなりえず、君子になろうと努力し続けるのです。ですが、それでよいのではないでしょうか。完璧な君子にはなりえないのです。
正直、完璧な君子になった、と思うのは、錯覚であり、幻想であり、おごりなのです。
 
もちろん、「君子になろうと常に努力し続ける」という人生は、とても大変で、苦しいことです。正直、私もできているとはいえません。そのうえでですが、本当に立派な人というのは、「君子になろうと常に努力し続ける」人ではないかと思うのです。

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