突然バンプオブチキンの話をする(ついでに話題の”91年生まれ界隈の文化反省会”の話とかも)、「全否定ごっこ」ではない建設的な話をしたいという気持ちについて
突然ですが、バンプオブチキンの話をしたいと思っています。
今書いている本の担当編集者の人が、「メールアドレスがバンプの歌詞」ってぐらいのバンプオブチキンのファンで、こないだ打ち合わせで話している時にバンプオブチキンの話になって「懐かしい・・・」って凄い思ったんですよね。
同時に、先日ネットで「91年生まれが自分の世代の文化を反省したい」っていうツイートがバズってたんですが、その「91年生まれが取り囲まれて育ったもの」に「バンプの影響」って凄い大きいんじゃないかって話とか、ただ単に否定しようとしたって前には進めないので、そこをどう考えるべきなのか、みたいな話とか、したいなと思っています。
ついでに別の話ですが、「ゼロ年代ネット文化」のもう一つの象徴としての「はてな」文化が衰退していることを懐かしむ記事も最近色々見るんですが、こういうのも「過ぎ去って消えゆく文化」として見られつつあるみたいで。
で、両方の話について言えることなんですが、時代の変化は当然色んなものを流しさっていくわけで、そしてそれを「反省」するのはいいんだけど、単に「否定して悦にいる」のではない前向きな話をしないと、単に
「アレは全部ダメでした。今度のコレは完璧です」
みたいな話をしていても、結局それは10年後にまた別の
「アレは全部ダメでした。今度のコレは完璧です」
に置き換えられてしまうだけなんじゃないか?みたいなことも思うわけで。
当然「ダメなところ」もあっただろうけどそれは「良いところ」と表裏一体だったりする中で、「どうしたらその良い部分を継承しながら、ダメな部分を変えていけるのか」みたいな、そういう「全否定ごっこ」じゃない話
をしていきたいですよね、という話をしたいと思っています。
ちなみに体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。
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1●バンプの文化的波及効果には直接的な売上の数字以上のものがありそう
その打ち合わせの話で出たのはこの曲なんですが・・・(メロディーフラッグ)
話に出たので久々に聞いたら物凄い良くて!
その後思い出爆発しちゃって、音楽サブスクサービスで「Flame vein」とか「LIVINGDEAD」とか、「Jupiter」とか「ユグドラシル」とか、大昔のバンプオブチキンの曲をあさって聞いていたんですけど、なんかこう・・・うーん!
90年代の曲、たとえばコムロ作品とか、イエローモンキーとか、ミスチルとか、小沢健二とか、物凄く久しぶりにたまたま聞いても、単に「懐かしいなあ、やっぱりいい曲だなあ」とか思うだけなんですが、バンプオブチキンを久しぶりに聞くと、なんかこう、(良い意味で)恥ずかしい気持ちになるというか、単に「懐かしい」というだけでは済ませられない感情を思い出さされるようなところがあって。
彼らは学年的に僕の一個下で、彼らがブレイク(死語?)したのは僕が大学卒業する直前(はじめて”天体観測”を大学の近くの定食屋で流れてるの聞いて”すげえ直球勝負のバンドが出てきたな”と思った記憶が残っている)なので、「彼らのファンど真ん中」は僕よりもう少し下の世代(上記の担当編集者さんは30代後半女性)だと思うんですけど。
彼らが”メジャー”デビューしたのは2000年なんですが、考えてみればそれ以降の日本のサブカルチャーにおける影響力は物凄いものがあったんじゃないかと思うんですね。単に売上の数字以上の「影響力」が物凄かったというか。
「2ch」でバンプオブチキンの「K」のフラッシュアニメが凄い流行ってたことありましたよね。探したらユーチューブにあった↓(これちゃんと著作権者にライセンスされてるみたいなんで貼ります)
ちなみに米津玄師さんはこのフラッシュアニメを見て音楽をはじめた(あるいはコレを見てバンプが好きになり、音楽的にかなりの影響を受けた)・・・とかいう話だそうで、米津さんに限らず今の日本で作曲活動をやっているアーティストにはこの時期のニコニコでボーカロイド曲を作っていた人も多いので、なんかこう「バンプから脈々と」的な何かがある気がするんですね。
なんていうのか、「バンプオブチキンそのもの」を参照している感じじゃなくても、2chとかニコニコとか言ったゼロ年代に流行った「ネット文化」の人間関係のあり方の根底に流れているのがバンプオブチキン・・・みたいなところがあるんじゃないかと思うんですよ。
バンプのシングルの隠しトラックに入ってるメンバー同士の果てしなく茶化しあってる感じ・・・と、2ch文化やニコニコ文化の底流にあるものは共通していると思うし。
それ以外にも、細かいことを言えば、今たまたま昔のPVを見ていて思ったんですが、例えばスクエニのFF15の主人公の髪型と服装(あるいは男四人組というコンセプト)・・・みたいなところにまで影響が広がっているんじゃないかという気がする。
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2●バンプ的「仲間との絆」が生み出す高潔さと、その功罪
その「バンプ的なるもの」ってなんなのか・・・という話をもう少し考えると、要するに「仲間」的な感情から来るもの、だったりするのかな、と思うんですね。
「仲間」という存在の良さは、それがあるからこそ、単なる「グローバル世界における孤立無援の砂粒のような個人」であったらできないような事ができる・・・ということでもあるかもしれない。
「仲間への信頼」っていうのがあるからこそ強くなれるとか、「仲間への信頼」があるからこそできる高潔さとか、そういうのが、バンプの音楽を聞いていて「震え立つ」ような気持ちになる部分だったりする。
一方で、「仲間」を重視するということは、それはつまり「内輪ノリ」であるということでもあって・・・みたいな話でもあって。
今、あらゆる人間の「個人主義」度合いが10年前、20年前よりも格段に高まってきている時代の風景の中で、バンプ(特に初期の曲)を久々に聞いてみると、その「仲間意識」の真っ直ぐさと同時に、ちょっと「人間関係が近すぎてツライ」というか、「内輪ノリ」すぎてツライと感じる部分もなくはない。
結構「フワッ」とした話してますけど、これを読んでいる多くの人に、
という人はたぶん多いと思っていて、そのあたりに、
「仲間」という感情と「個人」という感情の間にある難しい二律背反の問題
があって、そのへん、過去10年20年の間の日本社会が色んな両立が難しい条件をすべて満たす方程式を探し続けて右往左往してきた苦労そのものが詰まっているという感じがするんですよね。
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3●「91年生まれ世代」を取り囲んでいたのは「バンプの波及効果」の部分かもしれない
で、なんか、少し前に「91年生まれの世代が自分たちの文化を反省してアップデートしよう」っていうツイートが凄いバズってて、
ここであげられている「91年生まれの私たちが若い頃触れてきたもの」のリストを見てると、ひょっとするとバンプの一番良い時期のことは直接知らないかもしれないけど、まさに「バンプオブチキンの波及効果」によって生まれた巨大なサブカル環境の中で直系に育ってきた人たち・・・が91年生まれ界隈ってことなのかなと思ったんですよね。
もちろん、バンプは「僕の世代が知ってるバンプ」とは違う形でずっと現役だったので、『orbital period』『COSMONAUT』『RAY』(この辺のアルバムまで僕も確か一応買ってた記憶がある)ぐらいまでの間、91年生まれの人たちは中高生〜大学生でまさに「メインに直接のファン」だった人も多いかもしれませんが。
僕もこの曲とか、
この曲とか
たまたまユーチューブで見て、「凄いなあ、自分が普段生きている世界とはどんどん遠くなっているけど、”バンプオブチキン”は健在だなあ!」と眩しい思いでアルバムも一応買った気がします。(実に”中期バンプの歌詞世界的感情” 笑)
91年生まれ界隈・・・の人にとってはこの二曲とかがまさに「バンプの黄金時代」かもしれません。HAPPYの方のPV、六本木ヒルズ前の会場なのが「あの時代」を凄く感じるところがありますね。
で、なんか、上記の「91年生まれ反省ツイート」で「悪い例」としてあげられている要素を考えてみると、バンプに「嫌韓」的な要素は一切ないと思うし韓国にもファンは結構いると思いますが、バンプ的な「内輪ノリ」の結果としての「カジュアルな嫌韓」「カジュアルなギャグとしてのオネエ・ホモネタ」・・という意味では時代の気分に渾然一体になっている部分はあるように思います。
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4●反省するのはいいが、その先のビジョンの話があまりないのが気になる
「91年生まれ大反省会」については、アレコレとネットで激論が巻き起こってたんですけど。
個人的には、まあ反省というか、手放した方がいい部分はそりゃあるんじゃない?とは思うんですよね。
僕はニコニコの当事者世代というよりは少し上の世代なので、「今の若い人の文化ってすげーな」と思って遠目から見てた感じでしたけど、唐突に挟まれる「幼女ネタ」とか「ホモネタ」とかはちょっとなんか、ついていけんな、って思う部分はなかったわけじゃないです。
私は経営コンサル業のかたわら色んな個人と文通しながら人生について考える仕事もしていて(興味ある人はこちら)、最近なぜがゲイをはじめとするLGBTの人の文通相手が増えているんですが、その中で30代のゲイの人が、
みたいなことを言ってました。
あと、韓国との政治的対立があって、日本人として言いたいことがある・・・というのは全然いいと思いますが、なんか当時の(今もまあ一部にかなりありますが)ネットカルチャーとして、彼らは人種的に劣った民族だとか、あと日本で生きてる政治的対立とあまり関係ない韓国人にまで暴言吐きまくる人が出てくるところは、さすがに放置しておけない部分としてはあると思う。
だからまあ、反省するのはいいと思うんですが、「反省」したあとに出てくるものが、単に「劣っている日本カルチャーを捨て去って、先進的な欧米文明の流行を全面的に取り入れよう!」的な「全否定ごっこ」な感じなのが、この「反省会」ツイートに賛否両論が巻き起こるポイントかなと思うんですよね。
いやいや、
そんなに「間違いなく完全無欠な人類の目指すべき未来」みたいなのがパッケージ品として売っててくれるなら私も取り入れたいと思ってるんですが、それがほんの人類の上澄み数%の傲慢さとセット売りになってるから混乱してるんじゃないですか!みたいな問題
があるわけので。
なんか、ありとあらゆることで長所と短所は表裏一体なので、上記ツイートみたいなカルチャーの結果として、アメリカでは連邦議会議事堂が占拠されるほどの分断が起きたりしているわけですよね。
結果として、欧米の民主主義は常に混乱していて、「こんなことなら中国型の統治の方がいいんじゃないか」みたいなことを言い出す欧米のインテリすらいる時代に、無邪気に「これを取り入れさえすればいいのだ」とはとても言えないわけですよ。
そもそも「米中冷戦」の時代を全地球的に考えれば、本国の欧米諸国の中でも一部のインテリとそれ以外との分断が激しくなってしまっているだけでなく、「人類の一割程度でしかない欧米諸国」と「ソレ以外」との価値観ギャップもどんどん広がっていっている時代なわけですよね。
その「人類のほんの上澄みの特権階級」の論理で「それ以外の人」を見下している傲慢さが見え隠れするので、反発を受けて結局「残り9割」にまで普及していかななくなる・・・みたいな分断が生まれている状況だと言えなくもない。
要するに、
「物凄く副作用も大きい劇薬」みたいなのがあって、色々と気をつけながら慎重に摂取しましょうね・・・、みたいな状況
において
高圧的に「飲まないなんて間違ってる!」みたいなことを言われている
のだと言えなくもない。
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5●2030年に30歳になる00年生まれは以下のように言うのかも?
だから、91年代生まれの30歳の人からしたら上記ツイートみたいな状況に見えるかもしれないが(それでも同世代からかなり反発受けてましたが)、10年後の2030年に30歳になった2001年生まれの人は、以下のようなツイートをしてるかもしれない。
なんか、さっきも書きましたが、
「アレは全部ダメでした。今度のコレは完璧です」型の「全否定ごっこ」的言論の空虚さ
みたいなのを、もう少しちゃんと理解した上で、「実際の日本社会」をどうやって変えていけばいいのか・・・についてみんなもっと考えようぜ、みたいなところがある。
はイエローモンキーがゼロ年代に出した曲の歌詞ですけど、
「あれはあれでいいところもあったし当時の自分たちには必要だったのだ。時代に合わなくなったところを反省して変えていきたいとは思っているが、一ミリも”後悔”という気持ちはない」
というような態度こそが必要なんじゃないかと自分はいつも思っています。
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6●「知的で意識高い我々」が「それ以外」を見下す文化構造自体を超えるために
前回の記事で、
なぜ「ポリコレ的なもの」が世界中で強烈な反発を生むのか、みたいな話として、哲学者の千葉雅也さんのツイートについて紹介しましたけど・・・
さっき書いた、「文通の仕事で繋がっているゲイ」の人も、ニコニコを結構楽しんでいたゲイ当事者として思うことは複雑で、以下の3つが渾然一体になってる・・・みたいな話をしていて。
なんか「ここに存在する複雑さ」↑を、今のポリコレ運動は「アメリカンに単純化」してしまうので、「そこに存在していたリアルな多様性」をロードローラーで踏み潰した上で、
「なにか風紀委員長的な、隠れた強烈な権力姓」
を押し売りしてしまうところがあるんですよね。
形としての「多様性礼賛」が「本当の多様性」を強烈に押しつぶして均質化してしまう作用がある。
ポリコレ的に「搾取する抑圧者は自分が抑圧者だと自分では気づくことができず、被抑圧者から指摘されると逆上してしまう」ってよく言われていますけど、この
「”正しさ”という圧力(とその背後にある欧米文明中心の文化帝国主義的なもの)」
を「被抑圧者」から指摘されて、そして「特権階級の抑圧者の常」として逆上している・・・みたいなことが、今ネットでよく見ることなのかな、という感じがします。
前回の記事で書いたように、
みたいなことがあるので、
みたいな方向性が、今後「日本という土壌」をベースに世界に提示していくべき方向性なのだ、と私は考えています。
バンプ的に言えば、
「あー僕はいつもーせいいっぱいーうたをうたうーーあああおっおーあーあうおーーー」
が、
男も女も性的少数者も民族的マイノリティも、エリートサラリーマンも現場労働者も、陽キャも陰キャもそれぞれに別の形で
共存できる重層的な空間を確保していく事が重要というか。
この時にアメリカ的な「共通のシステムをあらゆるところに普遍化」すると、「アメリカンなカルチャーに親和的な陽キャの権力」が「他」を抑圧する構造になるんで反発が生まれるんですよね。
その結果として、その「欧米中心の新しい政治的正しさ」は当の欧米内でも反発を強烈に生んでいるし、そもそもその「欧米社会」っていうもの自体が全人類のほんの1割ちょっとでしかない「世界のほんの一部の上澄みの流行」でしかないのに、
みたいな態度でいることの傲慢さとか滑稽さ、みたいなのをそろそろちゃんと自覚するべき状況に今はなってるんですよ。
というのも、
という大問題がある。
そうすると、いかに「上から目線の断罪」でなく、「それぞれの国が培ってきたナマの感情のあり方」と溶け合わせるように普及させていく態度が必要なのかという話が物凄く大事な課題だとわかるはず。
今の日本でポリコレ的風潮に反発が大きい世界があるのは、それは「欧米文明中心的な文化帝国主義」という「権力性」が告発されているのだと考えるといいと思います。
そうじゃなくてある種の「棲み分け」的な観点を取り入れて、色んなカルチャーで生きる人同士がお互い踏み越えないように生きていく環境の「適温」状態をいかに保てるか・・・みたいなことがこれからの時代に重要な観点になってくる。
今、人類全体のほんの1割もいない欧米社会の中ですら反発を受けているような潮流では、「人類全体」にまで波及させることは到底できないですよね。
そこで「これが最新版の新しい道徳規範です」という「風紀委員長からの押しつけ」型ではなく、「現地現物の土着的カルチャー」といかに親和性を高めながら「自然な気持ちの延長として」浸透するような工夫をしていくことが、これからの課題というわけです。
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7●リズム隊まで歌に参加するバンド音楽スタイル
で、バンプの話に戻るわけですが、今久々に聞いていると、特に初期の演奏技術が安定してない時とか特になんですが、「リズム隊まで歌に必死で参加してる」感じがやっぱ凄いいいなと思うんですよね。
これは、2000年代のバンド音楽、サンボマスターとかでも思うんですが、リズム隊(ベースとドラム)が、「歌」に物凄く参加してる感じがするんですよね。
バンド音楽って日本以外は英米しか知らないんで比較するのも英米ですけど、英国のドラマー(コールドプレイの人とか伝説的なレッド・ツェッペリンの人とか凄い好きなんですが、世界の中心で俺こそが主役であり自分こそが”時”を刻んでるのだ、ぐらいの感じがありそう)、アメリカのドラマー(ニルヴァーナの人とかレッチリの人とか好きなんですが、とにかく力いっぱいスネアを叩くパワーが印象的)と違って、日本のドラマーは本当に「歌」に参加してる感じがあって。
英米のバンド的な世界観におけるリズム隊と、日本における「”歌”に全力で参加するバンドのリズム隊」は全然違う感じなんですよね。英米の音楽における「リズム」は「人為を超えて客観的に存在する」感じがするけど、日本におけるリズムは「歌と一体にあるもの」なんですよ。
このへんが、結果としてJポップの「内輪ノリ感」と「独特の熱量」に繋がっていて、「良さ」でもあるし、一方で「息苦しさ」にも繋がっている部分があると思っていて。
最近の日本人は日本人自身がその「内輪ノリ感」をどう扱っていいかわからなくなっていて、一方で海外の日本文化好きの外国人が「その良い部分がどこなのか」を凄くわかってくれている感じもあったりして。
これはNARUTOのオープニングになっていたアジカンの曲なんですが、わざわざ英語版を作って、もう物凄い熱量でカバーしてくれている外国人がいて。
この動画の、特に後半日本語になったあたりからの、この巨漢の兄ちゃんのボーカルの物凄く「切実なトーン」が、当の日本人が忘れかけた真心のありかたについて「思い出せよ!」と言ってくれているような気持ちになります。
面白いのは、別の、アジカンご本人のライブ動画に、英語のコメントで「スカした態度で歌ってんじゃねえ。本気で歌えよ!」っていう英語コメントが結構ついてたりするんですよね(笑)
CHA-LA HEAD-CHA-LA級の全力をこの曲に人々は求めているんだけど、アジカンのボーカルさん自身がちょっと照れちゃってそれが最近のライブではできづらくなっているという(笑)
この曲については日系アメリカ人ミュージシャン(兼ユーチューバー)で別のナルトの曲もやってる井上ジョーさんもカバーしてるんだけど、「皆がこの曲に期待する熱さ」を、アメリカ人風の直球の真っ直ぐさで表現してくれている感じでコレも僕は凄く好きです。(照れ隠しの変顔とかはまあご愛嬌で)
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8●”仲間”感覚が消えないように、徐々に”個人の尊重”カルチャーを混ぜ込んでいく
ビル・ゲイツやバフェットの世代のアメリカ人は、「好物はビッグマックとコーラ」とか、「大富豪でもあえてそう言うのが政治的に正しいこと」みたいな感覚が明らかにあったと思うんですが、最近のアメリカ人の若い成功者は、どんどん「普通のアメリカ人」と違う方向に違う方向に自分の好みをアピールするようになってしまって、共和党支持のアメリカ人と民主党支持のアメリカ人が共有できるものがどんどん消えていってしまっていて。
一方で日本は、そういう「徹底したグローバリズムの受容」からは距離を置いてきたので、経済的パフォーマンスは正直言ってビミョーすぎる20年間でしたが、まだギリギリ薄い義理の連鎖が繋がっていて、一応地方民も東京民も金持ちも貧乏人もコンビニとラーメンと漫画を共有している部分は残せている。
とはいえ、今の日本人の多くが、「初期のバンプの音楽」ですらちょっと息苦しい響きを感じるぐらいにはなっているとは思うんですよね。少し人間関係が近すぎる感じがして、名曲だ!!!と思うんだけどそう全力で思いきれない自分がいる。
バンプじゃないですが、ニコニコで流行ってた
「真っ赤なぁぁぁぁぁ誓いぃぃぃぃい!!!!」
みたいなのを全力で歌いたいけどちょっと照れちゃってできない、みたいなジレンマがある。実はお互い一緒になって絶唱したい気持ちはあるんだけど、最近は人それぞれ、個人のペースってものもあるしねえ・・・とか言ってなんとなく微妙な空気を共有するだけになっちゃっている。
ただ、「アイドル音楽」でとりあえず間をつないで、「グローバリズムの中の孤立無援の砂粒」的に完全にバラバラになるのを必死に繋ぎ止めていた時代を超えて、ここ数年はキングヌーやら髭男やら、「個々人はプロフェッショナルに独立している」感じはあるけど、「リズム隊も歌に参加するような独特の一体感」は生きている・・・みたいなバンドがちゃんとチャート上位に入るようになってきてはいると思っています。
バンプオブチキン時代が、初期曲のあとの、「同じドアをくぐれたら」ぐらいからは、「個人であることと仲間との繋がりの矛盾をどう超えていくのか」みたいなことがそれ自体テーマになってきている感じがするしね。
そんな中、「RAY」とか「HAPPY」とかは、その矛盾に対して、「簡単にすぐ答はでないけど、ちゃんと自分たちの納得が持てる答を出していこう」という本当に揺るぎない高潔さみたいなのが感じられて凄く好きです。
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9●「変人」を尊重できる”普通の日本人”の紐帯
これは、たまたま最近ユーチューブで見た変な人なんですが、
変な格好、変な曲名、変な名前のアーティスト・・・なんだけど、よく聞いてるとこれは中島みゆきの「地上の星」みたいなテーマの曲なんですよ(笑)
みたいな話で、
っていう歌詞とか凄い染みるなあ・・・と思って。
で、なんで突然この人の話をしたかというと、この人自身は物凄く個人主義的な「変人」タイプなんだけど、そして固定的なバンドを組んでいるわけじゃないんだけど、物凄くプロフェッショナルな技能を持ったバックバンドメンバーがそれぞれ集められて、セッションしているときに凄く「楽器も”歌”に参加してる」感じがいいなあ、って思うんですよね。
単なる「セッションミュージシャン」という感じではなくて、「歌」に全力で参加してくれる、しかし「個人」としてプロフェッショナルに成立している楽器隊の人たちがいるのが、凄くいいなと思って。(ベースはダウンタウン浜田さんの息子さんです)
「まさに地上の星的なテーマ」を、”プロジェクトX”的な形でやったらさすがにバンプの初期曲どころじゃない息苦しさを、「今の日本人」は感じると思うんですよね。テイストが”昭和”すぎるとツライ。
でも、楽器隊がそれぞれ個人として超プロっぽい環境の中で、先端的なダンスミュージックのビートの中でこういう歌詞が乗っていることの可能性、みたいなのを凄く感じたというか。
こういうのって、「過去20年間」に、日本人がグズグズと「わかりやすい答」には飛びつかずに、両立の難しい何本もの方程式がちゃんと解ける特異点を探して延々と妥協せずに生きてこれたからたどり着いている感じ・・・なんだと思うんですよね。
「バンプ的なバンド音楽の理想」を、それ自体としては今の時代の個人主義的風潮の中で再生しづらくなってきているけど、でもその「記憶」があるから、「個人のプロフェッショナルさ」と「一緒にリズム隊も歌に参加するグルーヴ」も両立するんだというかね。
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10●ポリコレ的マナーの過剰さが生み出す分断を超える連帯の可能性を
日本のネットじゃ言い尽くされてることですけど、欧米型の「ポリコレマナー原理主義」みたいなのが行き過ぎると、
「そういう文化に親和感を持って育つことができた特権階級」とソレ以外
が物凄く分断されちゃうんですよね。
「テーブルマナーをちゃんとできないヤツは人間的にクズだ」みたいな言い方をすれば大問題ですけど、一方で「特定のポリコレ的配慮のマナー」であれば思いっきりそれを言いまくることができて、結果として「インテリ特権階級的な生まれの人がソレ以外を倫理的に断罪しまくれる」状況になってしまったりする。
何らかの「主流派ではない存在」に対して「優しくない要素」を社会から減らしていこう・・・ということ自体に反対な人はほぼいないと思いますが、要はそのやり方が、「インテリ特権階級のお遊び」みたいな感じになってしまっている現状があって、世界中で紛糾のタネになっている。
一方で、”ニコニコ”の全盛期というのは、「自分たちなりに仲間をお互いにそのまま祝福する」カルチャーが重層的に積み重なっていて、確かにそこにはホモネタや幼女ネタみたいなのが含まれていたとしても、そこに「独特の相互承認と多幸感」が存在していた事は否定できないと思っていて。
さっきの文通してるゲイの人も、「嫌な部分もあったけど、でもソレ以上に凄く楽しかった」って言ってたしね。
そうやって「自分たちをまるごと祝福しあえるパワー」が満ちていれば、シンガポールの人とか、台湾とか香港とか韓国の人とかが「歌い手」で参加してても、物凄く歓迎されて一緒に楽しもうぜ!という気分が満ちていた。
以下の記事で書きましたけど、台湾のオードリータン周辺が新しい考え方を古い社会に導入していくときに、その社会の伝統に物凄く配慮している態度を取っていることからわかるように、「異端を受け入れるマジョリティ側の心理的安定性」をいかに保つか・・・ということが、特に「欧米社会の外側」にその「新しい理想」を普及していくときには決定的に重要な配慮であるはずなんですよね。
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11●「共通性」を否定しないで盛り上げていくことで、マイノリティ保護を津々浦々へと普及させる余地も生まれる
結局、無駄に「共同体を攻撃する」ような形で「マイノリティ擁護」をすると「社会の心理的安定性」が崩壊して、余計にマイノリティを攻撃する人たちも止められなくなる構造ってやっぱりあるわけですよね。
ってナウシカのジイサマたちが言ってましたけど・・・そんな感じになると、「都会の恵まれた特権的インテリサークル」以外においてちゃんと「優しい配慮」を行き渡らせる回路が途絶してしまう。
そういう「糾弾型」ではなく、「お互いのメンツ」を祝福しあえるようなカルチャーを整備していくことの重要性、みたいなのが大事な時代が来ているわけです。
欧米的理想って、「フランス革命の理想」の方は入ってるけど「その熱狂でギロチンされまくった人」とか「熱狂した軍隊に攻め込まれてヒドイ目にあった国の人の気持ち」とかは全然入ってないんで、この「人類における欧米のGDPシェア」が下がり続ける21世紀の全地球的時代にはその「逆側」の気落ちも両方入れる配慮が必要になるんですよね。
たとえば、「ゆたぼん」みたいに学校に行かない人がいてもいいけど、「ある程度の大多数が普通に学校に行って勉強する意味」は当然社会的にあるので、お互いを攻撃しあってないでそれぞれのあり方を認めればいいだろって話なんですよね。お互い否定しあってるから良くない。逆に言うと「学校に行くマジョリティ」の心理的安定性をちゃんと保護することが、ゆたぼん的人物を攻撃するエネルギーを抑止する唯一の方法であるはずだったりする。
たとえば、田舎育ちの女性が都会に出ていって暮らしてて、正月に実家に戻ると結婚の話ばかりされる・・・こと自体は本当に良くないことだと思うんですが、一方でそういう女性は、案外日常的な振る舞いの中で「都会」のあり方を基準にして「彼らの生活」を無意識に断罪しまくっていることも多いんじゃないかと思うんですよね。
そこで「あと一歩のお互いの違いを認め合う」ことができれば、『変人』が思う存分自己表現して生きるところを、多少控えめだけど現場的な技術蓄積のある楽器隊が優しくサポートしてくれるような音楽のあり方・・・みたいな構造の中で、
「バンプオブチキンの初期曲の思い出を、現代的な個人主義の延長に」
再現するような道は見えてくるんじゃないかと思っています。
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11●米中冷戦の時代に、「日本」を世界にねじ込んで行ける「僕らだけの道」は見えてくるから見逃すなよ!
今書いている本のタイトルは
「普通の日本人が正しい」
なんですが、原稿先行公開記事
で書いたように、
(中略)
っていう趣旨なんですね。
で、「アメリカ型の何でも政治問題化して誰かを糾弾しまくる”WOKE”カルチャーの過激さ」を批判する気持ちがあるのは、オバマ元大統領とかマイケル・サンデルとか、あと欧州の穏健派インテリもかなりそういう傾向はあるんで。
「欧米文明の理想の大事な部分は否定しないが、現地現物レベルで”欧米諸国の外側”においてそれを根付かせていくには特段の配慮が必要なのだ」
という旗印を、「欧米の穏健派のインテリ」の文脈も巻き込みながら日本が立ち上げていくことは、米中冷戦時代の新しい世界の中心軸としてのポジションを作っていくことに繋がると思います。
米中冷戦時代というのは、特に30年代までに中国の方がGDP総額でアメリカを凌駕する可能性すら見えてくる中では、「あくまでアメリカ側に立っている世界第三位の経済大国」には物凄くいわゆる”キャスティング・ボート”的なパワーを持ちうるってことなんですよね。(キャスティング・ボートというのは、今の日本の国会での公明党のように、比較的小さい第三位サイズの存在が、拮抗した世界における重要な発言権を持つパワーバランスになることを指す用語です)
GDP総額単体でアメリカは中国より小さくなるかもしれないが、日米の総額を足した額を中国が超えることは相当難しい、中国の少子高齢化的要因による経済成長減速によって永久にないかもしれないぐらいのハードルになるので。
アメリカから見ても日本の繁栄を邪魔できなくなるし、中国から見てもなんとかして自分側に引き寄せたい存在になる。
この記事で書いたように↑「ヤンキーの気持ちがわかる優等生」ポジションとして世界が日本を必要とする「構造的に不可避な理由」が生まれてくる。
つまり、「昭和の最後に世界一の金持ちになったらバッシングされまくったトラウマの裏返しとしての内向きに萎縮した平成時代」の時代背景とは全く違った環境構造になってくるんですよね。
その「戦略的に特別な優位性」を単に自分たちのエゴのために使ったら極悪人ですけど、しかし「欧米型理想をその外側まで、ナマの感情ベースで地続きにつないでいく」ために日本人が過去20年延々とこねくり回してきたことの価値(まさに”バンプオブチキンの遺産”的なもの)を、世界規模でねじ込んでいける情勢には当然なっていくと思っています。
アイドル用語で言うところの「世界のセンター=日本」になれる道がそこにある。
さっきの「NARUTO」のオープニング曲の英語版を絶唱していた人みたいに、そういう「日本の美点」を、現代の日本人が徹底的にオリジナルな思考と実践の中で提示してきてくれることを、「日本好きの外国人」をはじめとしてちゃんと待っていてくれてる人は世界中にいると思いますよ!
過去20年間、日本では「欧米由来の理想の押し売り」にはたいてい反発が大きくて、その事が批判されがちでしたけど、まあ、今後の「米中冷戦時代」には、そこに隠れていた「1億2千万人の深謀遠慮(笑)」を最先端の人類全体の理想としてねじ込んでいき、同時に日本という国の「旗印」にもしていける情勢には当然なると思っています。
以下の記事たちで書いたように、「20年間、経済的不調を受け入れても、バラバラにはされずに内輪で守ってきた紐帯」があってこそ、これからできることがあるはず!
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最後に、バンプオブチキンで一番好きな曲はやっぱこれだな・・・って個人的に思うロストマンを貼ります。
これ、歌詞が難解でいまいちよくわからないっちゃわからないんだけど、なぜか毎回凄く泣けちゃうんですよね。これ聞いてた頃の思い出とかも次々と蘇ってくる。
「不器用な旅路の果てに正しさを祈りながら」かーらーのーギター・ソロかーらーのー残響が大きいスネアドラム連打!とかなんかJポップ・ロックの良さが詰まってると思う(笑)曲はじまってからここまでゆっくりめに歌うフレーズを弾いてたベースが、ここ以降ずっと同じテンポで刻み続ける疾走感も凄くいい。
「ロスト(失うこと)を”ゲット”したことのポジティブな意味」について考える、みたいなことを藤原基央氏が言ってた記憶があるんですが・・・
「失われたXX年」とか言われてますけど、「そのロストをゲット」したことで生まれる特異な可能性ってのが、これからの日本には物凄くあると思っています。
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さて、今回記事の無料部分はここまでです。長い記事をお読みいただきありがとうございました。
以下の部分では、最近、今をときめく韓流アイドルBTSの事務所が、日本で作曲スタッフを募集するにあたって、「Jポップ形式でない曲を作れる人」という条件をつけた・・・っていう話についてアレコレ考えてみます(笑)
日経に載ってた記事なんですが、BTSの事務所ビッグヒットエンターテインメントが、日本で作曲家・プロデューサーを募集していた要項の中に、「Jポップっぽい曲は送ってくるな」って書いてあったという話題があって。
上記記事より引用
「文通の仕事」で繋がっている日本のアイドル作曲家の人がいるんですけど、この募集は日本の音楽業界でも話題になって、実際に何人か応募して仕事に繋がった例とかも彼の近くで聞いたりしたらしいです。
で、なんかさっきのバンプの「ロストマン」の話じゃないですが、
って、おいおい、バンプ先輩のことディスってんじゃねーぞ!・・・みたいなことをちょっと思わないでもなかったんですけどね。
ただ、数年前まで結構好きだった日本のある若い世代のバンドが、最近メンバーの入れ替えでリズム隊がいなくなったあげく、移籍した事務所の力もあって結構突然「やっと凄く売れ始めました」っていう話を聞いたら、軽妙なビートのハイセンスな音楽が人気のバンドだったのに、「やっと凄く売れた曲」ってのが、まさに、まさに!
↑みたいな感じになってて、うーむ・・・これでいいのか・・・いや悪い曲だとは言わないし、良い曲だと思う!けど!うーむ。いや他人がどうこう言う話ではないけれども、このバンドってこういうバンドだったっけ?みたいな気持ちになり。
「こうしないと日本では売れないのだ」っていう事情があるのかもしれず、しかしそれで良かったのかなあ、というのは結構考え込んじゃう気持ちになったんですよね。
だからこう、「アップデート」は何らか必要なんだと思うんですよ。「Jポップの王道形式」っていうのは90s〜00s前半のその当時なりの必然があって生まれたものであって、今「それ」をただなぞるのは、なんだかこう、「必然」があんまりないというか。
ただ一方で、じゃあ韓国の最近の音楽みたいに「今欧米の売れ線はコレなんだからコレに合わせよう」みたいなのでいいのか?っていうのはやっぱ個人的には好きじゃないというか、韓流の最近のそういう傾向があんまり好きじゃない韓流ファンの話とかも結構聞くし、韓ドラとか韓国映画でたまに流れる「へえ、こんな良い歌もあるんじゃん」みたいなのがヒットチャートに全然出てこない感じはやっぱりイビツだなと思う部分もあり。
そのあたり、結構、音楽に限らずあらゆる文化現象とか政治とか経営とかで、普遍的にあらゆる問題にあてはまる課題だと思うので、さっき出した「売れた!と思ったら全然違う曲調になってた日本のバンド」の曲とかを具体的に出しながら以下の部分では考えてみます。
大事なのは「流行りに乗って全否定ごっこ」してくるヤツのことは徹底的に黙殺していいけど、「自分たちのリアルな熱狂」が今でも本当にそこにあるかはちゃんと考えたほうがいい・・・ってことですかね。
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