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哲学は出口がない迷宮
「哲学」が好きで毎日毎日考え続けているわけだが、「哲学」という言葉の意味自体が多くの人にとっては理解されていないことも理解している。そこで、ここではそもそも「哲学とは何か?」という話をしようと思う。
「哲学」とは何か?
一言で表すのなら「自分の言葉によって本質を洞察すること」となる、
もっと噛み砕いて言えば、
「何が本当なのかを自分の頭(言葉)で考えること」となる。
だからこそ哲学書を読むことは実は「哲学」ではないし、
哲学史をいくら学んでも「哲学」をしたことにはならない。
上にも書いたように「自分の頭(言葉)」で何が本当かを考えることが哲学なのだから、他人が書いた言葉をいくら読み耽ったところで哲学をしたことにはならない。
もちろん、誰かの言葉をもとに自分の頭で考え直していれば、それはまさしく哲学と言える。
哲学をすると何がわかるのか?
結論から言えば、哲学をしても、実は何もわからない。
「えっ」と思われた方も多いだろうが、覆しようのない事実なのである。
強いて言うなら、
「どのようにわかっていないのかが、わかる」
ようになる。
喩えるなら、哲学は出口のない迷宮を歩くことに似ている。
出口がないというのは、初めから分かっている。分かっているので、そもそも出口を探しているわけではないのだが、それなら何をしているのかと言えば「この迷宮がどうなっているのか」を徹底的に調べているのだ。
よくゲームなどで、自分が歩いたところがマップに表示されていく類のものがあるが、哲学もそれに似ている。自分が歩いた(考えた)ところだけははっきりと見えてくるが、歩いて(考えて)いない部分は何がどうなっているのかわからないのである。
だからこそ、全てを照らすために、この迷宮の全ての道を通り、全ての曲がり角を曲がり、全ての分岐点をチェックしている。それには途方もない時間と研鑽が必要で、文字通り一生涯をかけて身命を賭して臨んでも全てを見ることはできないのだ。
はっきり言って徒労の極みである。どれだけ思考を積み重ねようと、最終的には「わからない」という一点に収束するからだ。
それならなぜそこまでして哲学するのか。
答えは一つ……、「どうわかっていないかがわかること」よりも面白いことが僕には思い当たらないのである。
「わかっていないことをわかっている」と思い込んで生きるよりも、
「何がわからないかをしっかりとわかっている」方がはるかに素晴らしいことに思えてならない。
誰しもが見向きもしないことに考えを巡らす……、この共有し難い孤高とも呼べる面白さを今日も味わっていく。