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ノーベル文学賞作家、オルガ・トカルチュクの絵本作品『迷子の魂』『個性的な人』

2018年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家オルガ・トカルチュクの絵本作品を二つ紹介する。

いずれも現代社会の問題を扱った風刺的作品だが、これらを読んでパッと風刺だとわかる人と、「何の話?」と首をかしげる人の二択になる。そしてそれこそがまさに現代が問題としている部分なのだ。

現代は、
「問題に気づいている人」
「問題に気づいていない人」
の二極化の時代なのだ。

問題に気づいている人は問題に気づいていない人の多さに無力さを覚えながらマイノリティとしての生きづらさを感じ、問題に気づいていない人は問題の核心には気づいていないながらも漠然とした生きづらさや苦しさを感じている。

いずれにせよ、「生きづらい」という一点は共通しており、それが現代に跳梁跋扈してやまない苦しさの源泉なのだ。

きっと著者のオルガ・トカルチュクは、その”苦しさ”に焦点を当てた。そしてノーベル文学賞作家としての鋭い洞察と思案の結果として生まれたのが、これらの作品なのではないかと思う。

「問題に気づいている」側の人間であるオルガ・トカルチュクの文章と、同じくポーランドの画家であるヨアンナ・コンセホのイラストレーションは、迷子のなっている世界への道しるべとなるだろう。


『迷子の魂』のあらすじ・解説

あらすじ
とある働き者の男がいた。彼は普通に働き、普通に暮らしていたが、ある時ふと自分が見失われているような虚無感に襲われた。そこで老医師の元を尋ねると、老医師は「あなたは自分の魂を見失っている。あなたはそれが戻ってくるまで静かに待たなければならない」と告げられ、男は幾日も、幾週も、幾年も静かに待ち続けた……、というお話。

本書は地上にいる人間を空から見た絵から始まる。そして次のページには、

わたしたちを上から見たら、忙しく走り回る人で世界はあふれかえっているでしょう。みな汗をかき、疲れきっている。そしてかれらの魂は……

『迷子の魂』

という文章が添えられている。

そして本書の主人公である男性も、おそらく僕たちもまたその忙しなく動き回っている人間の中の一人なのだ。

「普通に」働いている。
「普通に」生活している。

しかしその「普通」が、もしかしたら自分を見失わせるのに充分なほどに忙しすぎるのかもしれない。

著者のオルガ・トカルチュクは別のエッセイでこう語っている。

わたしにとって、ずっと前から、世界は何もかもが過剰だった。多すぎるし、速すぎるし、うるさすぎる。

「窓」『世界』2020年7月号

僕たちが何気なく過ごしているこの日常は、
「多すぎて」
「速すぎて」
「うるさすぎて」
「過剰」であるかもしれないのだ。

もちろん、そう感じていない人も大勢いるだろうし、そういう生活から離れている人も少なからずいる。

しかし、街行く人を見てみる。
すれ違う人々の表情は、疲れ切っているように思えてならない。
急ぐように歩く人たち。
スマートフォンに釘付けになっている人たち。
過剰な広告、企業やマスメディアが作る流行や情報に踊らされる人々。
少し街を見るだけでも「過剰さ」は火を見るよりも明らかで、
人々は「迷子」になっているように思えてならないのだ。

そんな忙しなさが絶えず先行する世界で、人々が自分を見失うのはある意味では自然なことなのだ。

だからこそ、今ここに立ち返る必要がある。
静かに、立ち止まって、考える。
考えるのが難しいのなら、考えなくてもいい。ただゆっくりとした丁寧な時間を過ごしさえすれば、迷子になっている自分が、魂がきっと追いついてくれるはずだ。

そうやって一人一人が自分自身を取り戻していけば、今のような過剰な世界も少しずつ熱が冷えていくように落ち着いていき、「生きづらさ」が「生への実感」に移り変わっていくのではないかと思う。

そのための第一歩として、本書を手に取っていただけたらと切に願っている。


『個性的な人』のあらすじ・解説

あらすじ
通りすがりの人にさえ記憶されてしまうほどに魅力的な顔を持つ男性がいた。彼は自分の顔が自慢であり、自撮り写真をいつでもどこでも撮るようになり、それをネット上に投稿していた。ある時、ふと自分の顔がぼやけて見え、かつての魅力が失われているような感覚に陥ったのだ……、というお話。

これは人間の自己承認欲求と、現代のSNS社会が絡み合った問題を、魅力的な顔を持つ男性に投影した作品であるように思う。

様々なSNSが今では人々の生活の一部にすらなっている。

SNSは情報の発信をどんな人にでも可能にさせたり、それまでは関わり合うことの難しかった人と人が繋がるようになったり、と新たなコミュニケーションのツールとして便利で有効なものだ。

しかし、その一方でSNSが起こす弊害があり、本書はその弊害を浮き彫りにしているのだ。

SNSでは、自分の知り合いはもちろんだが、面識のない人からもリアクションを貰える。不特定多数の知り合いですらない人、一生涯知り合うことすらないかもしれない人まで、自分の投稿に反応が返ってくる。

もし写真であれば、本来ならそれを直に見せた人から反応が貰えるものであったはずが、自分が全く知りもしない人や、自分のことを知りもしない人にも見せることになる。

良い意味ではより広い範囲に自分の投稿を見せられる機会を持った、ということになるが、悪い側面では自分というものや自分の投稿を「面識のない人々の視線のもとにまで晒す」ことになる。

それがいつしか当たり前になると、自分のためにやっていることが「誰かに見られる」ためにやっていることに変わり、自分がどう思うかではなく誰かがどう思うかに重きを置き始め、自分の評価よりも他人の評価が大切になってしまうのである。

人というものは、他人の評価をいくら集めたところでなかなか満足するものではないのに、その不満足感がさらに強い自己承認欲求となって「もっと多くの他人の評価を得れば満たされる」という勘違いを生み、延々と満たされない渇きのなかで苦しむ羽目に陥ってしまうのだ。

本当に必要なのは、自分で自分を正当に評価することであって、他人の評価は一つの意見でしかないと知ることだと思う。

「自己肯定感」なんて言葉があるが、本当の意味での自己肯定とは、自分を変に前向きに肯定しようとする気持ちのことではなく、自分を自分で正当に評価した時に生まれる満足感のことだと思う。

肯定も否定もせず、自分をしかと見る。そしてこれが自分か、と「自ら」「分かる」から、「自分」という言葉になったのではないかと僕は思っている。

「自分」というものについて、「個性」というものについて、SNS社会に問いを投げてかけてくる素晴らしい作品でした。オルガ・トカルチュクの問いをぜひ受け取ってみてください。


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