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自叙伝⑰悟りの衝撃
オカルティックに育児に明け暮れていたある日のことです。
入浴中に「コミュニティーを作って畑をする」という直感が走って戸惑いました。
コミュニティー??畑??
なんのこっちゃと思いました。
コミュニティーって…もう2年休んでるから人が集まるかな?
畑?私は全然そういうタイプではないのだけど…と。
しかしこの直感には抗えない感じがあったことと、2年は手元でかなりしっかり育児をしたのでそろそろ仕事復帰をしてもいいのかなという感じもあってそれをやることにしました。
かくして仕事復帰して畑を一緒にやるコミュニティーを主催し、オンライン参加とリアル参加で20名弱の方が集まってくださりスタートしました。
実際はコミュニティーというか集まっての連続講座って感じになりましたが、とにかくそれを開始しました。
そしてスタートした直後にそれは起こりました。
悟りということに興味を持っている人なら一度は聞いたことがあると思うのですが、いわゆる悟りの一瞥体験というものが起きました。
禅では見性(けんしょう)と言います。
悟りや禅、非二元とかノンデュアリティーと呼ばれているものに興味がない方でも、仏教の「無我の境地」は聞いたことがあるかと思うのですが、それのことです。
その時私はダイニングテーブルに座っていたのですが、気が付くと「私」という個人が消えてしまっていました。
これまで「私」と思っていたものが本当にはいないこと、「私の過去」や「私の未来」や「アレコレ悩ましいこと」と思っていたこともそのほかのあらゆる「考え」なども、何もかもが全部全部概念であること。
人は本当に概念の中に生きていることを直接経験しました。
なのであのワンネス体験なども「私」が体験しているわけではなく、ただそのようなことがあったということなのです「私」に起こっているのではなくて。
あらゆるすべての感情や思考に「所有者がいない」ことをダイレクトに知ることになりました。
そして冷蔵庫を見てもカーテンを見てもすべてが自分だと感じ、でもそれはあのワンネス体験の様に高揚感や恍惚感や神秘的な様相ではなく「子どもの頃はこれだったな」というような、知っている感覚でありました。
だからといってノスタルジックな感じでもなく、それはただただシンプルで、もう信じられないシンプルさで、特別さを感じさせないものがありました。
よく「ひとつしかない」みたいな表現があるかと思うのですが、本当にそうです。
すべては確かにひとつです。
そして私はこの時「前しかない」という感じがすごくありました。
前しかないので後ろがない。
内と外があると思っていたけど、外しかないので内と呼べるものもない。
全部が剝き出しの丸剥けの「前」であり、隠された神秘のようなものはどこにもない。
二元ではなく、一元ということです。
本当に、「思てたんとちゃう」という感じで。
脳機能の知識があったので、理屈として「私」というものの実体がないということは知っていました。
私たちは確固たるこの自分というものがいてそれが人生の主導権を握って生きているという風にしか思えませんが、現代科学でもそれは事実ではないということはもうとっくに解明されていて、「私」というものは「私みたいな感じ」というクオリア(質感)でしかないということは知識としては多分今はもう多くの人が知っていることだと思います。
釈迦が悟った無我というものに2500年後、科学がやっと追い付いたという表現がなされているのもあちこちで見たことがありました。
だから私はそれを知ってはいたし、体験してみたいとも思っていました。
デカルトが「我思う、ゆえに我あり」といったように、どう考えても私という確固たる人物がいるようにしか思えないというのに釈迦も科学もそうではないという。
一体全体それはどういう感覚なのだ?と。
しかしこれは実際に体験すると私には大変な出来事となってしまったのです。
この時点までは知識としては「私」というものがないと知りつつも、それでも普通に「自分で人生を切り開いて生きている」と主体的な想いがありました。
自分が努力してアダルトチルドレンを治した、とかそんな感じです。
そりゃそうです、普段の体感としてはそのようにしか感じられないのだもの。
でもそうじゃなかった。
すべては「私」の仕業ではなかったとダイレクトに感じたことは思いっきり足払いをかけられて顔面から地面にたたきつけられるような衝撃がありました。
一瞥が起きて「私」という主体がないことが明らかになれば気楽になって肩の荷が下りると思っていたし(そのような体験談が多い)、それはもっと神秘的なもので何か覚醒するのかと期待があったが(そのような記事も多い)実際にはそれはもっと静かで淡々としたもので、そんな仰々しいものではないんです。
ちなみにこれは「そのこと」を見ている自己というのが残っている状態だとのちに師匠に弟子入りしてから知って中途半端なものだとわかりましたが、この時はそれを知るよしもなく。
だからこの時点ではこれが悟りだと思っていたんです。
私は自分のこの半端な経験を生悟り(なまざとり)と呼んでいます。
この生悟りは私を虚無の世界に突き落とす出来事となりました。
コミュニティーを開催して講師として連続講座をやるべくスタートしたのに「こんなことをしても無駄だ、すべての物事に所有者はいない、本当は誰もいない」という想いが頭をもたげたのです。
今目の前に皆さんがいて私がいて話をしているんだけど、これらのことのすべてが「摩訶不思議な全自動」なのであって、誰も個人的にこのことを経験していない、誰もいないしこれらの話のすべては概念に過ぎないんだ、と。
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生き方の座学がセットになっているという変わった連続講座をやっていました
それでも集ってくださる皆さまに少しでも有益な情報を、楽しい時間を、という想いを奮い立たせ、虚無感と責任感という内部葛藤を抱えたまま1年の連続講座をやり切った。
虚無感を振り切って目の前の皆さんに全力で講義をすることだけが逆に救いになった。
その時間はそれこそ虚無感を感じている「私」は消滅しているからだ。
私がどんな葛藤を感じていようが皆さまには関係がないし、この時にやれることを精一杯やりきりました。
虚無感にさいなまれていた私は同じような体験をしている人の本や体験談を探して読み漁った。
そしてこれは一瞥を体験した人の中では珍しくないことでもあるとわかりました。
一定数、私のような雰囲気になることがあるということです。
頑張って生き抜いてきた経験も、辛酸をなめて悲しみを乗り越えた経験も、超馬力で勝ち取った成功体験も、一生背負うのかと思ったアダルトチルドレンを治したことも。
何もかもが「私」の仕業ではなかった。
いや、ほななんやってん。
「私の人生」やと思てたもんってほんまは全部マボロシやん。
楽になるどころか、とてつもない虚しさが私を覆いつくしたのでした。
続く。