(見せかけの)自己言及文において「定義域が変化する」「関数は同一ではない」とは具体的にどういうことなのか
野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note)の続きです。
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再び野矢氏の『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』に戻ろう。
私自身の見解としては、ウィトゲンシュタインの言い分はもっともだと考えるが、もっと具体的に考えてみよう。
「犬である」あるいは「犬」という言葉のみを対象とするのであれば、それはただの「犬」という文字のことかあるいは「いぬ」と発音された音声となる。ただの文字や音声ならばそれはもちろん犬ではない。「犬という概念(言葉)は犬ではない」ということになろう。
しかしこの場合ウィトゲンシュタインの言うように自己言及文ではなくなっている。なぜなら主語は文字・音声であり、述語は犬と呼ばれる実在の動物を指し示すものとなっているからである。
まさに同じ言葉が違う意味合いで用いられているにもかかわらず、同じものとして扱う誤謬が生じているのだ。一種の言葉のトリックとも言えよう。
一方、主語も実在の動物を指し示すものとして捉えたとすれば、「犬は犬である」というただのトートロジー的表現に結果としてなってしまう。これを述語づけることができると考えるのかどうかは非常に怪しいと言わざるをえない。
「ポチは犬である」という命題における対象はそこにいる犬一匹を指し示しているが、「犬」という言葉は、この世の中に住んでいるすべての犬、あるいはそのうちのどれかの犬のことを指すものである。そして「犬」という言葉の持つ意味を変化させずに自己言及文を作ろうとすれば、(繰り返すが)「犬は犬である」という表現になってしまうだけなのだ。
述語が名詞の場合はこのように分かりやすく説明できるのだが、形容詞などの場合少しややこしい。
「芸術という概念は曖昧である」と言う命題に関して、曖昧とは芸術と呼ばれる行為や作品の範囲が明確に線引きできないようなものであることを示していると思う。その時、「曖昧」という言葉は芸術(行為や作品)という対象を指している(と思われる)。では「曖昧という概念」が主語になったとき、どうなるであろうか?
もし「曖昧という概念」が「曖昧」という「言葉」のみを指しているのであれば、そこに(「曖昧」という言葉が指す)対象は存在しない。「曖昧」という言葉自体が対象となる。「曖昧」という言葉に対応する言語外の対象(つまり「曖昧」という言葉の意味)は除外されている。そうであれば「曖昧」という漢字、あるいは「あいまい」と喋る音声、それ自体に対し「曖昧である」とか「曖昧でない」とか判断のしようがないのではないだろうか。
つまり「『曖昧』という概念は曖昧である」とは真偽を問えない命題、一種のナンセンスと言えるかもしれない。そもそも自己言及文にさえなっていない上に、述語づけることができている事例とさえ言えない。野矢氏の見解とは真逆になる。
「曖昧という概念」が「曖昧」という言葉の対象を含むと考えればどうだろうか? 「曖昧」という言葉の意味を考えるとき、どうしても「曖昧」のみで完結することができない。ある人の言うはっきりしない発言や態度、何を芸術と呼ぶのか明確に線引きできない状況、絵の輪郭がぼやけていて何を表しているのかわかりにくいような状況・・・そういった個別の具体的状況を想像する以外に「曖昧」という言葉を表現する方法はないのである。「曖昧」という言葉の意味を辞書のように文章で説明することはできる。しかしその文章が何を示しているのかと問えば、結局それらも具体的・個別的状況(要するに事態や事実)として指し示すしか他に方法がないのである。
つまり述語を考えるとき、どうしても主語的な何かが必要となってくる(これがタイプ理論を考える際の一つの根拠づけになりそうではある)。そういう場合、より正確には「曖昧(なもの・状況)は(やはり)曖昧である」というふうに一種のトートロジー的表現に結局は収斂されてしまうように思えるのである。そしてこれも自己言及文とは言えないのではないか。
このように具体的に考えてみれば、野矢氏の説明に様々な混同・誤謬が含まれているのかが明らかになってくる。ラッセルや野矢氏は、言葉の意味をすり替えることで見せかけの自己言及文を作り出しているだけなのである。