現代写真マガジン「POST/PHOTOLOGY」 #0015/ヴォルフガング・ティルマンス《Kyoto Installation 1988-1999》
京都国立近代美術館「LOVE Fashion: In Search of Myself」
京都国立近代美術館で開催中の「LOVE Fashion: In Search of Myself」での展示作品について、現代写真研究者の視点で考察する。
本展はファッションの歴史とファッションに隣接する表現を行ってきたアーティストの作品とを並走させることで、わたしたち人類の「服を着る」という普遍的な営みが内包する様々な思いを「LOVE」として顕在化させる展覧会となっていた。
「In Search of Myself」の意味
まず、最初に筆者に興味をもたせたのは英語の展覧会タイトル「LOVE Fashion: In Search of Myself」と日本語タイトル「LOVE ファッション - 私を着がえるとき」についてである。
「In Search of Myself」をそのまま直訳すれば「自分探し」という意味になるが、それを「私を着がえるとき」と意訳している。服を変えることがもつ意味を広義に捉え、どんな服を着るかということがその人の人格を形成するというように、ファッションというもののもつ意味や可能性をメタ的に捉えることで、この展覧会が単にファッションの歴史やアイテムを並置して見せるものでないことが示されている。
また「私を着がえるとき」と「私」を主語「私が」ではなく(Myselfだからだというだけかもしれないが、、、)、目的語とすることで、主体である「私」の複数性のようなものがその先に見てもとれる。これは、1990年代以降の固定化される主体化に対するひとつの態度としても考えられ、この展覧会が示す主題が複雑な現代社会の様相であることを感じさせるものであった。
ヴォルフガング・ティルマンス《Kyoto Installation 1988-1999》
本展でもっとも気になった展示について。少し触れていく。
展覧会会場に入ってふたブロックほど進んだ先の壁面一面に現れるのがドイツ人アーティスト、ヴォルフガング・ティルマンス(Wolfgang Tillmans 1968-)の作品《Kyoto Installation 1988-1999》(2000年)である。
ティルマンスは、2000年に非英国人、写真のアーティストではじめてターナー賞を受賞するなど、現代写真界を代表する重要なアーティストの一人である。2022年にMoMAで大回顧展が行われ、NYタイムズでは「これまで観た中で最も悲しい展覧会のひとつ」と評されていたことは記憶に新しい。
90年代初頭にファッション誌での活動から頭角を表し、壁面いっぱいを使ったアストロノミック(天体的)な展示方法では数多の模倣者を生み出すこととなった。
《Kyoto Installation 1988-1999》
今回の作品《Kyoto Installation 1988-1999》は2000年に制作された作品で、その構成は、大型のインクジェット出力の1点を含む、大、中、小、極小、極小正方形の6種のサイズ(縦横含む)のアクリルマウントされたプリント作品が1面の壁に一見するとランダムに見えるかたちでインストールされた22点の写真からなる壁面インスタレーションの写真群である。
大型の作品は1点はインクジェット、剥き出しのプリントが上部を3点、下部を2点、ダブルクリップで固定されている。それ以外の21点は、すべて発光現像方式印画による銀塩プリントによるもので、それぞれのサイズに合わせたアクリルボックスにマウントされたものである。その構成は、大サイズが3点(内、横位置が1点)、中サイズが7点(内、横位置が1点)、小サイズが3点(内、横位置が1点)、極小サイズが3点(内、横位置が2点)、極小正方形が5点。
一部極小の正方形作品が高さが揃って横並びになった部分があるが、それ以外には展示の中に規則性は見てとれないが、この展示にはアーティストからミリ単位での指示が出されているという。
作品のタイトルから撮られた写真は1988年から1999年の12年間のものであるということは察することができるが、こちらもどの写真がいつの時期であるのかということはそのイメージからは窺い知ることはできない。選択された22点のイメージには、日常的な若者の風景、体の一部、アップにされた若者の顔、ミリタリーファッションで砂浜に寝そべる若者のモノクロ写真、主人が不在となった服の写真など様々である。
90年代の負の側面
1990年前後に冷戦体制が終わったとしても、今なお世界各地で終わらない戦争がその後も続いていることなど、今現在見ると、輝かしい90年代の負の側面、もしくは現在に繋がる下り坂の物語を思わせるのはこれらの写真の中のそこかしこに死のイメージを感じ取ってしまうからなのかと感じる。
ティルマンス自身、この間(1997年)にパートナーであった画家ヨッヘン・クラインの死を体験している。主人が不在となった服の写真は当然であるが、ふたつ並んだ赤いタイルのシャワールームの写真がもっともそれを感じさせる(実際は1999年撮影のものなのでおそらく無関係)。ティルマンスは、二つ並んだ鏡に映りこまないように気を遣ってこの写真は撮られている。どちらか片方がいなくなったのだったらば、それはもうどちらもいないのと同じであるという残された側の気持ちがそこには現れているように思えてならない(※90年代前半のフェリックス・ゴンザレス=トレスを思わせる)。
ベルリンの壁が1989年になくなり、自由とアイデンティティの時代を迎えた90年代は一方でエイズという病と新たな戦争という負の側面を持ち合わせた時代でもあった。
ティルマンスはその後、デジタルカメラを使った「Neue Welt」(2012年)へと向かうこととなる。
ヴォルフガング・ティルマンス「MOMENTS OF LIFE」と比較して
2023年エスパス ルイ・ヴィトンで展示されていたティルマンスの展示「MOMENTS OF LIFE」は2014年にファウンデーション・ルイ・ヴィトンがコレクションしたものによって構成されていた。今回の展示と同じように壁面いっぱいを使った展示であったが、そこから受け取る印象は別のものであった。
ひとつは、展示された作品の形式のバリエーションの多さであろうかと思う。この間に写真はアナログからデジタルへと向かい、プリントは銀塩からインクジェットが主流となった。「写真」というものに対する人々の意識は多様化する一方で、頑なになっていく部分もあり、その分断は鮮明になっていっている。
写真というメディアそのものが、90年から現在に続くグローバリゼーションによる時代の閉塞を現していると感じられる展覧会であった。
まとめー現代写真研究者としての視点
当然のことではあるが、「デスクトップ展示」などと呼ばれてきたティルマンスの代表的な展示方法であるが、時代時代でその表現に変化がある。
その独特な展示方法による展示性によって、「相対的に世界を提示し、鑑賞者にその物語のあり方を委ねる」というのがティルマンスの特徴であると近年の展示を観て思っていたが、展示そのものにある種のパーソナルな問題を込めていたところからスタートしてきたのだとも見れる。
直接的ではないにせよ、2000年のターナー賞受賞当時のティルマンスの表現を観れる貴重な展示であった。