現代写真マガジン「POST/PHOTOLOGY」 #0016/湯晴予(TANG Qingyu)《Hide and seek》
京都芸術大学 HOP展
京都芸術大学のギャルリ・オーブにて、2024年11月8日(金)から19日(火)まで行われている。京都芸術大学では、修士課程の学生が2年間の中で3回の作品展を行い、修了展へと向かうのだが、HOP展はM1(修士1年生)による最初の展覧会ということになる。
ここ数年、この作品展の講評会にゲストとして伺わせてもらっている。展示数も多く、個性的な展示が毎回多いため、限られた時間(3−5時間くらい)の間で全ての作品に関してアーティストと話せるわけではないのだが、私自身の持つ現代写真や現代アートの知識を総動員して、作品のことを考えコメントをさせてもらっている。
今年のHOP展はようやく、コロナ禍の影響をまったく受けていない大学生活の中から生まれた作品と思えるようなパワフルな展示が多く観られる展示であった。
湯晴予(TANG Qingyu)《Hide and seek》
今回は、HOP展(修士課程 1年生展)の中から、湯晴予(TANG Qingyu)《Hide and seek》について現代写真研究者の視点で書こうと思う。
展覧会会場の奥、3つに分けられた展示スペースの最初のエリアの一番奥に提示された作品が湯の《Hide and seek》であった。
作品はエリア内には積まれたアクリルボックス、鉄製のカゴのカート、iPadによる映像作品とキノコの山の箱によって構成されたエリア内に、「キノコ」に見えるフォルムを持つ(人によっては「湯婆婆」と言っていた)大小様々なサイズのオブジェクトによって作られたインスタレーションとなっている。
この展覧会に向けた制作の途中経過を、事前に担当している講義の合間に見ていたこともあって、展示されたものを観て、最初からスッと素直にこれが何なのだろうか?ということに入っていくことが出来た。
キット化された身体
このキノコのフォルムは、印画紙上に印刷された展開図を切り取り、折って組み立てることで作られている。湯は、自身の身体パーツ(頭、目、唇)をこの展開図の中に割り付けを行って、様々なサイズで出力し、組み立て造形している。
割り付けられた身体のイメージはそのままにキノコの表面を構成する構成要素となる。
子供のころに雑誌の付録などで、誰もが経験したことのあるクラフト感はある種のチープさと親密さを鑑賞者にもたせるが、その一方で、誰もがこの作品の示す問題に関与しがちであるということも示しているように思える。
キノコのように見えるオブジェクトは、いくつかのパターンはあるものの、口が開いているもの、閉じているもの、黒目が普通のもの、白目にされているものなどの組み合わせによって、割り付けられたイメージにはバリエーションがあり、同じフォルムながら、実は見た目が違うというようになっている。
つまり、フォルムはある種のステレオタイプを鑑賞者であるわたしたちに与え、イメージはそれらが持つ個性を主張してくる。
現代におけるヴィジュアルの問題
湯自身がどこに立ち位置をとっているのかということは、作品だけではわからない部分ではあるが、この作品が提示する問題は、現代における均質化するヴィジュアルの問題、ルッキズムに関わる問題、それとアイデンティティの問題などではないかと感じた。
キノコというフォルム(ステレオタイプ)に捉われると、それぞれが持つイメージ(個性)を見落としてしまう。鑑賞者によってはその逆もあり得ると思う。
展示に添えられたキャプションと作品タイトルである《Hide and seek》から、こういった社会が抱える問題をゲームとして捉え、それをこのキノコのフォルムでユーモラスに表現している。
軽くて薄い、ペラペラである写真の特性
実際の展示されていたキノコに見えるオブジェクトの数を数えてはいないが、相当な数である。
写真は軽くて薄くて、ペラペラである。一方で、絵画は重く、苦しく、押し付けがましい。(どちらもけなしているわけでも誉めているわけでもない。)
不可能とは言わないが、これを絵画で制作したり、立体だからという理由でFRPや発泡スチロールなどで作るのはあまり有効ではないと思う。そうすると、キット化された写真によるオブジェクトで示せているクリティカルな批評性が失われてしまう。ペラペラで軽薄なメディアであるからこそ作品はユーモアを持つことができるのだ。
印画紙が折り曲げられ、のりづけだけで造形されているから良いのであって、造形後にレジンで固めるなどもってのほかだ。
この作品の最大の良さは、写真というメディアを使って、キット化されたイメージによって生産させたオブジェクトを展示したことである。それをキノコというフォルムにしたことがこの作品に現代社会に対する批評性をもたせている。
キノコと現代写真
キノコとは、菌類が胞子形成のために作り出す構造(子実体)の俗称であり、胞子が発芽して菌糸を形成し、それが成長して菌糸体となり、異なる交配型の菌糸が融合することで子実体(キノコ)を形成し、そこで新たな胞子を生成・散布するという複雑な生活環を持ち、オスメスの区別はないものの、交配型と呼ばれる遺伝的仕組みによって多様な方法で繁殖する生物である。
また、菌類ゆえに、キノコは、植物と比較してより広範な生育領域を持ち、地上や地中、枯れ木上など多様な環境に適応できる上、非常に小さな胞子が風や動物によって長距離を移動できることから、予想外の場所に突然現れることがあり、また土壌中で複雑な菌糸のネットワークを形成し様々な有機物を分解する能力を持つことで、平地から高山まで広く分布し、高等植物に見られるような明確な垂直分布の制限が少なく、これらの特性により生態系において重要な役割を果たしている。
キノコの生態系は、出力の多様化、広告媒体への寄生、SNSやスマートフォンによる大衆化を背景にし、あらゆるところ現れるイメージの爆発的な増殖を思わせるものがある。
キノコには日本では既知の種類として2,000種以上とその3倍ほどの未知の種があると言われている。これも、現代の写真が抱える状況と同様に思われる。また、毒性を持った種類もあり、中には死に至る猛毒を持つものもある。広がるイメージに毒性があれば、それは人を殺すこともある。まさに現代のイメージを取り巻く状況である。
「紙を折り曲げて作る」という共有された経験と、誰もができるからこそ、このイメージの爆発的な増殖に私たちすべてが関わっているということ。それらを写真というペラペラで軽薄なメディアにキノコのフォルムをもたせて現代の抱える問題をユーモアによって拡散している。
イケアのぬいぐるみコーナーにあるカゴのようなインスタレーション部からこちらを見ている目と目が合って、自分たちをどう見ているのかを相手側も見ているということに気が付かされる。
まとめー現代写真研究者としての視点
キット化された写真作品によるフォルムとイメージのそれぞれが持つ特性による現代社会に向けた問いかけ。
写真というものの薄くて軽くて、ペラペラであるという特性を最大限活かした作品。写真表現を写真の中のイメージで表現だけではなく、写真で表現するにまで拡張している。
キノコというモチーフをメタファーとして、フォルムとイメージのもつ独特なユーモアが観る人を惹きつけるものに仕上げている。