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POST/PHOTOLOGY #0014/中川もも「STARBURST」×POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast


粘菌から宇宙へ、中川もも「STARBURST」

本論は、2024年10月1日(火)から13日(日)まで京都三条の同時代ギャラリーで開催されている中川もも「STARBURST」についての私論である。

中川もも(中川桃子)の作品をはじめて観たのは2022年3月に京都芸術大学のギャルリ・オーブで開催された現代写真の展覧会「写真は変成する2 BLeeDinG eDgE on PoST/pHotOgRapHy」京都芸術大学 写真・映像コース選抜展 KUA P&Vであった。

当時、学部生であった中川が制作に関して、「粘菌と共に生活している。」という説明していたことはよく覚えている。その後中川は、翌年の学部の卒業制作、選抜展のDOUBLE ANNUAL 2023。同時期に行われた「写真は変成する 3 INTERPLAY on POST/PHOTOGRAPHY」と着実に作品制作を進め大学院へと進学している。中川の作品について初めてテキストを書いたのは、大学のオンライン広報誌の瓜生通信へ「写真は変成する 3 INTERPLAY on POST/PHOTOGRAPHY」テキストを寄稿した時である。

それ以降、大学院内の定期的な展覧会の中で更新されていく作品を度々観てきたことになる。

「中間」という概念、「中間地点」という切れ目を差し込む戦略

中川の作品が持つ美学の基礎をなすのは「中間」という概念である。様々な社会の位相の中間に切れ目を差し込むことで、強固な同時代の規範にオルタナティブな視点を提供する。

これまで筆者が見てきた中川の作品がわたしたちに問いかけることは次のように要約できるように思える—「何ものでもないものが生み出す価値とは何か」あるいは、「不安定なものや状態がわたしたちの世界に対しどのような可能性を持つのか」…。

この感覚が中川たち世代特有のものなのか、現代という時代が共有する問題なのかをはっきりと答えるのはむずかしいが、中川はこの問題意識に「中間地点」を表出させるという、テンポラリーな方法で向き合おうとする。

90年代のアートが切り開いたアイデンティティに関わる問題のフィールドはデジタル情報化社会を経て、より複雑さを増している。近代以降に強固になってきた二元論的な世界の規範は、ますます進む情報化社会においてかつてないほどに強化されていく。何事にも白黒つけることで、人々は世界を理解したとし、一時的な安定の代償に世界の可能性を封殺する。

セラミック(陶器)製の器を「便器いう役割」から解放してものの世界の可能性を示したのがマルセル・デュシャンであったとすれば、中川はデジタル化が進み、世界の全てがますます「0/1」に還元される決定論的な世界の「中間地点」に目盛を刻み、二階調な世界への理解の可能性を中間にて広げてみせる。

何ものかではなく、何でないもの抽出

中川は「粘菌」という動物的な性質と植物的な性質を併せ持ち、動物でも植物でも菌類でもない単細胞生物と生活するということで作品を制作していた。この「何もの」とも特定し難い生き物の存在は、現代の生活世界に潜む二元論的な政治性の不確かさに目を向ける動機となったのだと考えられる。

世界からわたしたちを切り離す器官である「皮膚」を成す細胞が数ヶ月ですべて入れ替わるという事実と都市のスクラプアンドビルドとの共通性から、わたしたちが世界から切り出された確固たる存在でないことを「皮膚」と都市の壁をモチーフとして重ねた作品で示した。

その後も、液体とも個体でもない中間的な状態を特徴として持つスライムという玩具が持ち合わせるアンチノミーな「毒性と遊戯性」、状況によっていくらでも反転する薬の「必要性と毒性」、現代における新たな言語性であるハッシュタグがもたらす「共有可能性とそれがもたらす混乱」など…ものや状況のもつ両極に注意を向け、その不安定さと中間にある価値観を提示してきた。

それは、白黒つけ境界線をひくこと、それに伴うラベリングやカテゴライズといった固定化への抵抗であったと考える。

その表現は、開封後のペットボトルのプラスチックの蓋のようにある役割からゴミへと向かう経過の途中に「中間地点」を差し込むなど、その精度は鋭敏さを増している。中川は何ものかではなく、固定化から中間地点へと逃れた何でないものや、不安定な状態であることを抽出し、その可能性を提示し続けてきたと言える。

「STARBURST」展

今回の展覧会「STARBURST」でも中川は提示したイメージのみならず、展示においてもさまざまな「中間地点」を提示している。

空間的中間地点の提示によるギャラリー制度の非領域化

歴史を感じさせる建物の階段を上がった2階にある同時代ギャラリーの「collage plus」という小さな部屋が今回の「STARBURST」展の会場になっていた。

木製の入口ドアのガラスには複雑に生成変化させられた身体が切り抜かれたイメージが、複雑な形状で絡み合い内部から外側に向けて提示されている。ドアの外側上部には、粘菌を模したモールの網目が天井にまで伸びており、会場内にも同様のものがある。扉上部には破壊された下着一部が扉を挟まれて外へ伸びていることを考えると、展示外部のモールはそれを伝ってプリントのイメージ、印画紙と姿を変えながら内部へと繋がっているとも考えられる。会場内部と外部は扉や窓などで遮断はされておらず、繋がっている。

「STARBURST」インスタレーションビュー (c)中川もも 
@同時代ギャラリー 筆者撮影

ギャラリーという制度と権力が作り出す内と外の境界に中間地点を差し込み、空間的の境界を無効化しているともいえる。この作品の身ぶりは、ギャラリーの中に展示されるものが作品で、価値あるものだという私たちの固定化された思考を非領域化する。

ここ(目的地)に訪れるまでに通ってきた全てのものにも作品と同様に価値があり、ただの通過点であったわけでないことを気が付かせる。デジタル化され、過度に発展した情報化社会を生きるわたしたちは、いつの間にか目的至上主義な思考、つまり現在地の「0」から目的地の「10」にばかり目を向ける生き方をしてしまっているということだ。

「STARBURST」インスタレーションビュー (c)中川もも 
@同時代ギャラリー 筆者撮影

現在を孤立させない時間的中間地点

本展は、多くの過去作品も含めて構成されている。無数のプリントすべてを把握するのは難しいが、展示会場入口から内部へと続く粘菌を模したモールは学部の卒業制作で登場し、その後の展示でも度々登場するマテリアルだ。展示会場奥のモニタで提示されていたスライムの映像は昨年行われた修士1年の展覧会で登場し、これもその後の別の展示にも登場している。

「STARBURST」インスタレーションビュー (c)中川もも 
@同時代ギャラリー 筆者撮影

過去から現在までの作品を一連として示すことで「現在」を時間的に孤立させない。つまり「現在」という地点は常に時間的な中間地点であり、独立してあるものではないということになる。

同一時間上に置かれた「粘菌」にはじまる、様々な対象、作品のすべては同一コンセプト上にあることを意味してもいる。つまり、中川の作品はイメージやモチーフの共通だけで作られる写真制作とは一線を画しており、作品が示す意味のフィールドはこの共通するコンセプトの背後に広がっていることになる。このことが意味するのは、「ジェンダー」といったようなひとつのテーマに集約させていくこと、つまり、単純化を進める「ラベリング」では、その全貌を捉えきれていないということだ。

中間地点の提示から中間がもつ無限という可能性へ

写真による表現から写真という表現へ

今回の展示にはふたつの際立った特徴がある。そのひとつは、これまで写真を表現手段としていたものが「写真そのもの」を表現として提示するようになっている点である。

天井から吊るされたメインと思われる作品展示、入口扉の窓に内側から貼られたイメージなど一部のものは輪郭を切り出され加工されたものがあるものの、多くの写真は印画紙そのものの存在が強調されるように展示されている。印画紙を素材としてそれを加工することで何かを示そうとしているわけではなく、壁に貼られた印画紙は、たわんで壁との隙間を作っている。ある意味で気の抜けた展示方法は提示しているものが印画紙であるということを必然的に意識させる。

印刷されたロール状の印画紙が入口付近やモニタ脇など会場のあちこちに置かれ、壁面の一部には筒状の印画紙の上に横たわらせるようにして別の丸まった印画紙が被さって展示されているものもある。

「STARBURST」インスタレーションビュー (c)中川もも 
@同時代ギャラリー 筆者撮影
「STARBURST」インスタレーションビュー (c)中川もも 
@同時代ギャラリー 筆者撮影

その形状と組み合わせは、イメージにより複雑な連続を作り出すが、それ以上に見せられているものが写真というものなのか、イメージなのかという混乱を引き起こし、写真というものの曖昧な存在のあり方を意識的にさせる。

そう、写真は物質であると同時にイメージを媒介するメディアなのである。つまり写真こそ、ヴィジュアル・コミュニケーションの「中間地点=メディア」なのである。

中間の拡張がもたらす「無限」のメタファーとしての宇宙

「宇宙」に関わるコンセプトは中川の修士2年生の中間展示から立ち上がってきたものである。もうひとつの特徴はこの「宇宙」が示すものがより明確に示されるようになったことだ。

デジタル化された情報社会ではあらゆるものがビット化され「0/1」へと還元されていく。現代においては、数字をいくら積み上げたところで、「0/1」を繰り返すだけで積み上げた先にはもはや「無限」はない。わたしたちは思考の可能性は徐々にこの「0/1」という二元論的な世界に閉じ込められてゆく。

中川の「中間」という概念は、この二元論的な世界に別の形で無限を生み出す可能性を示している。現代のデジタル化された情報社会の中で、わたしたちが「無限」を作り出せるのは「1」の先にではなく、「0」と「1」の間である。つまり「中間地点」のヴァリエーションで豊かにすることが「無限」を作り出す可能性となるのだ。

中川が示す「宇宙」とはこの「無限」を示すメタファーである。外へ向け大きく広がる世界の先には無限の宇宙が広がる。近代移行自然科学が目指したものはまさにこちら側の宇宙である。同様に、内側に向け私の中へと向かった先にも同様に無限の宇宙が広がっているのだ。

中川の二元論を逃れる方法として示してきた「中間」という概念はこの展覧会において、「宇宙」というメタファーを通して「無限」という可能性を獲得したと言える。

いまや、固定化を逃れた「何ものでもないもの」や「不安定なものや状態」はわたしたちに「宇宙」の一部となり世界の可能性を示してみせている。

まとめ

  • 中川ももは中間という概念によって支配的な二元論に対しオルタナティブな視点を提供してきた。

  • 何かではなく、何ものでもない中間的なものの可能性と価値生成の提示。

  • 「STARBURST」において、これまでの「中間」という概念を宇宙というメタファーを経由することで「無限」という可能性へと拡張している。


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