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福沢諭吉「教育の方向如何」~教育の目的とは?

こんにちは
いままで『福翁百話』の短いエッセイに逃げていましたが、福沢の教育論を体系的に考えていくために彼の論説に向き合っていきたいと思います。

今回紹介するのは明治18年に時事新報に掲載された「教育の方向如何」です。この時期の日本は道徳教育をめぐって論争(徳育論争)が起きていました。そのなかで教育の方向性について問題提起した論説です。

現代語要約

 教育は何のためにするかと尋ねられて少し返答に困るわけは、人が何のために生まれたのかと問われているようなもので、その問題は簡単なようで簡単でない。教育を受ける目的は技能を身に付けて生計をたてるためといえば、すでに経済的に豊かなものには教育は必要ないだろう。あるいは経済的に豊かでない者でも足るを知って多くを求めなければ、苦労して学ぶ必要もない。教育は修身道徳の根本として、親への孝行や兄弟友愛の道を学ぶためと言えば、父母兄妹がないない者には教育は不要であると言えてしまう。
 
 この問題は非常に解釈が難しい問題だが、教育の大目的は、人生をかけてあらゆる心身の能力を拡張し、獣との境界から最大限離れていくことであり、教育を受けるのは人の為ではなく、自分のためにするものである。
 
 人が生まれた時には無智無徳で他の獣と異ならないが、これを教えると心身の発達が際限ないくらいに極度に発達する。人類を万物の霊長として他の獣と区別するのも、この優れた点を示しているのだろう。人物の智愚や社会が文明的かどうかなどはみな獣との境界からどれだけ離れているかを基準とした相対的なものである。
 
 教育により智徳が高尚になればその働きは家庭の営みに現れ、一家の生計を立て、父母に孝行し、家族円満になるだろう。それだけでなく、公共の事にまで及び、国に報いたり、天皇に忠義を尽つくしたり、社会の公益に貢献するだろう。いずれも人間が発達して公私に実際に良い影響を与えたものであることから、教育はあたかも樹木の根を育てるようなもので、その功能が人事(実社会)に現れるのは、枝葉や花・果実がなるのと同様である。

 文明社会において人が行うことは際限なく多く、これに対処することは一芸一能・一智一徳を以て足るものではない。ゆえに現代の教育の大目的とは何なのかという問いに答える時に、一芸一能・一智一徳を掲げて答えてはならない。生計を立てることは1つの能力でしかなく、親孝行・報国忠君もまた一つの徳義でしかなく、文明社会の様々な側面を網羅するには足りない。これら一智一徳を目的として教育の方針を定めようとすれば、その趣旨はあたかも一枝一葉・一花一実のために樹木を育てようとするのに異ならない。植木屋は樹木の根を養ってその生きる力を高め、枝葉花実は自然に任せてそれぞれその美しさを育てるのである。

考えたこと

① 人間の智徳の発展が文明社会の発展へとつながる

教育の根本目的は人間の智徳を最大限発展させることにあるという教育観は福沢に一貫しているものだと思う。そして『文明論之概略』でも述べているように、人間の智徳の発展の先に文明社会の発展があると福沢は考えていました。つまり、文明社会の発展の基盤として教育を考えていたのでしょう

② 一部の能力や徳性を育てるのが

 教育の根本目的は枝葉を育てることではなく根っこを育てることであると福沢は言う。ここでの福沢の主張は当時、政府が儒教主義的な道徳教育を導入しようとしていたことに対する批判でもあります。1つの道徳にしか過ぎない儒教を教え込むことを学校教育の目的とすべきではないと訴えているのでしょう。
 道徳教育はさておき、現代においても枝葉に目を取られて根っこの部分の教育の大切さを見失ってしまうことはありますよね。例えば、受験指導です。成績を上げたり、良い学校に受かったりすることは1つの枝葉、もしくは果実ですよね。枝葉の結果ばかり追い求めるあまり、受験でしか使えないテクニック論ばかり教えたり、過干渉になったりして、最悪の場合にはその子の人格を損なってしまうこともあります。
 教師や保護者は常に自分自身の指導や関わり方が将来子どもが生きていくにあたって必要な智徳を育てているのかということを常に意識しなければなりませんね。


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