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福沢諭吉「教育の事」前半~家庭は習慣の学校・親は習慣の教師

こんにちは! 
自分で「先生」と名乗るのは好きではないのですが、教育関係者というのが一目で分かるようにユーザー名を変えました!

今回紹介するのは明治11年に発刊された、福沢の短かい文章や演説の原稿などを集めた文集『福澤文集』から「教育の事」を紹介します。

主に家庭教育について、ダメな親をテーマにして書かれた論説となっております。こちらも長いので前半と後半に分けて紹介したいと思います。


要約

 ある人が、誰しも親なら子供を一流の人物にさせたいと願っているが、そうならなかったのは親の無情ではなく、その他様々なことが原因であると言った。

この説は、親の思いが皆あるという点では正しいが、世間には「鬼父蛇母」と呼んでも問題ない者が非常に多い。親の子どもへの思いがあっても無情の事を行えば、私はその思いがあるとは言えない

習慣の力は教授の力より強大なものである。子どもで父母により形成される家風に影響を受けない者はいない。

「故に一家は習慣の学校なり、父母は習慣の教師なり。」

教師たる父母が子どもと一緒に家で寝食をともにして恥ずかしい所はないだろうか?例えば、夜遅くまで飲んだり、妓楼に行くなど、ごまかしても子どもには見透かされる。

意図しなくてもこのような行動を子どもは真似るようになるだろう。毒ガスを吸わせているようなもので、その親を「鬼蛇」といって差し支えない。

現代語訳

 一人の教育と一国の教育は区別しなければならない。一人の教育とは親が我が子を教えることである。一国の教育とは志があり有力で世の中のことを心配する人物が世間一般の状態を見て教育の大きな方向性を定め、広く後進の少年を導くことである。

 父母の職分は子どもを産んでこれに衣食を与えるだけでは不十分である。これを生み、養い、教えて一人前の男女となし、二代目の世において有用な人物になれるよう準備し、世代交代して初めて人の父母の名に恥じなくなるだろう。 

ゆえに子の教育のためには労をはばからず、財産を惜しんではいけない。よくその子の性質を見極め、これを教え導き、力の及ぶ限り心身の発達を助けて、天から与えられた才能を最大限まで発揮させなければならない。大まかにいえば父母が子を教育する目的は、その子を天下第一流の人物、第一流の学者にさせることにあるべきである。
 
ある人が言った、
父母がまごころで子どもの上達を好まない者はいない。子どもがひとかどの人物・学者になることを願い、ついにそうならなかったのは父母が願わなかったのではなく、他に様々な事情があってこれにより妨げられたからである。故に子どもの教育に限って言えば、父母の無情を咎めてはいけない。

 この説は一面では正しいかもしれない。獣でさえその子を愛し、まして人類なら言うまでもない。天下の父母は必ずその子を愛しその上達を願うまごころがあるだろうが、今日世間一般の実際の出来事を見れば、子どもを鬼や蛇のように無情に扱う「鬼父蛇母」と呼んでも問題ない者が非常に多い。親が鬼や蛇のような時にも、父母のまごころによるものだといえるだろうか?有情を以て無情の事を行えば、私は結局その情がある所を知らない
 
 「教うるよりも習い」という諺がある。思うに習慣の力は教授の力より強大なものであるという意味だろう。子どもが生まれて家にいて、その日夜見習うものは父母の言動と普段の家風に他ならない。家風は父母の心によって形成されるものなので、子どもの習慣はすべて父母の一心に依るものであるといっていいだろう。故に一家は習慣の学校なり、父母は習慣の教師なり。そしてこの習慣の学校は、教授の学校よりもさらに有力で、実際の影響は切実なものがある。教師たる父母が子どもと一緒に家で寝食をともにして恥ずかしい所はないか?

例えば、前夜の飲み会が夜更けまで続き、翌朝布団の中から子どもを呼び起こして学校に行くのを促しても子どもは親切には感じないだろう。妓楼や飲み屋からの帰りにお土産を子どもに買って帰って喜ばせようとしても、子どもは感謝するのではなく、かえってどこで土産を買ってきたのか内心詮索するだろう。このような醜態を子どもにさらしては、子どもにそれを真似ろと言っていなくても、実態は子どもにそうなるよう勧めているようなものだ。例えるなら、毒を子どもに直接食べさせるのではなく、毒をガスにして空気に混ぜて吸わせているようなものだ。これを無情と言わないでいられようか。「鬼蛇」とよばれても差し支えないだろう。

考えたこと

① 親の習慣の影響力の強さ

 福沢の「家庭習慣の教えを論ず」でも「習慣は第二の天性を成す」ともいい、親の習慣が子どもに及ぼす大きさの影響を福沢は述べています。もし興味あれば、私の過去の記事をリンクから飛んで読んでみて下さい。
 自分たちの家庭での言動が子どもの言動に影響を与えていることに気付くのって意外と難しいんですよ。なぜかというと親の習慣って親からすると「当たり前」だし、徐々に子どもに影響を与えていくものだから。
 これは子どもに対する言動だけじゃないから気を付けてくださいね。夫婦間の言動だったり、家庭外での言動もですよ。例えば、夫婦間でどちらかが相手を尊重しなかったり、悪口をいったりすれば、子どもは学校で相手を気づ付けるような行動をとるようになります。逆に親が知り合いじゃない店員さんとかにしっかり挨拶すれば、挨拶が出来る子になる訳です。
 現在の子どもの言動の近因は今起きている出来事にあるかもしれませんが、遠因は親の習慣にあることもあるのです。

②「毒親」がなぜたちが悪いか

「鬼父蛇母」、今でいうなら「毒親」ですかね(笑)。福沢が挙げている例からすれば今の「毒親」なんてぬるいかもしれませんね。「毒親」という言葉もレッテル貼りなので定義が曖昧なので、一概には言えないかもしれませんが、虐待をする親などを除いて、毒親の難しさって「有情を以て無情を成す」所なんですよね。
 親は「子どものためを思って」色々やってる訳です。だからこそ、自分がやっていることを客観視できず、反省しずらい。無意識に子どもを自分の所有物のように扱い、自分の存在価値を子どもに依存しているとそうなってしまう。親は親、子どもは子ども、別々の人格であり、人生です。子どものためになることを親がやることよりも、親から見てベストの選択肢でなくても、子どもがその選択を自分ですることが大切ですね。
 そう思えるようになるためにも、親は教育に凝りすぎることなく、自分の人生を生きることも大切です。自らの人生を生きる姿を子どもに見せるのも「習慣の学校」となります。


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