要約 福沢諭吉「教育の目的」ー前半
こんばんはコウちゃんです。
今回紹介する「教育の目的」は1879年に『東京学士会院雑誌』に掲載されたものです。少し長いので前半と後半に分けます。
福沢はたとえ話が面白いのが特徴ではありますが、少しこの論説はたとえ話が冗長でくどいですね。
①要約
教育の目的は極限まで人を発達させることだが、何のために発達させるかというと、「平安」(天下泰平・家内安全)のためである。
私がいう「平安」とは足らざるを知らずして現状に満足するのではなく、精神面も物質的な面も高尚となり、高尚な心身に応じて高まっていく平安である。
ゆえに「平安」を目的とする教育の趣旨は、「足らざるを知りてこれを足すの道を求める」ことである。
② 原文に近い現代語要約
教育の目的は人生を発達して極度に導くにあり。では何のために導くかというと、人類に「至大の幸福」をもたらすためである。では「至大の幸福」とは何かというと、一般的に使われている言葉を用いれば、天下泰平・家内安全である。私はこれを「平安の主義」と名付けた。人が平安を好むのは天性なのか、習慣なのか問うつもりはないが、昔から今まで実際に好んできたことには疑いようがない。それならば、「教育の目的は平安にあり」といっても、世界人類の社会に通用するだろう。
現代の社会では、宗旨・徳教・政治・経済など様々な所論があり、互いに対立することもあるが、平安を求めるという意味においては対立することはない。宗旨・徳教は精神の平安のため、政治は心身の平安をもたらすため、経済は利便性を増し形体の平安を増すものである。そうであるならば、平安の主義が教育の目的であることが真実であると分かるだろう。
なかには、「天下泰平・家内安全を人生教育の到達点とすると、人類は野蛮で無気力な状態にとどまってしまう」と主張する人もいるだろう。徳川幕府による250年余りの泰平は至善至美であるという説もあるが、この説は物事の末だけ見て、その本を知らないだけである。当時の人民の心身はたしかに安であるといえども、その安は、自分以外の事物を自分のために利用して愉快を得るのではなく、周りの事物の性質に関わりなく、自分で愉快であると思っているだけである。つまり、万民が安心して足るを知っている状態であるが、その足るを知るは、足らざるを知らないだけである。
例えば、徳川の時代は江戸から奥州にものを送ろうとすれば、船で数か月かかるが、現在は蒸気船便で数日で手に配流し、数年後奥羽地方に鉄道が通ずれば、現在の蒸気船便も遅いと感じるようになるだろう。
つまり、昔の人が便利とすることは今日では非常に不便であり、今日の便利は未来には不便となるだろう。昔の人も、今の人も未来を知らいないから、現在の事物を便利だと思い、現在を安楽と思っているだけである。身近な例として喫煙者を鄭にあげると、安いタバコを吸っていたものが品質の良い高いタバコを数回でもすってしまえば、以前に吸っていたタバコを不快に感じてしまうだろう。これを喫煙の上達という。
天下泰平・家内安全の快楽もこれを享受する人の心身が発達して、その働きが高尚の域に進めば、古代の平安は現代の苦痛不快となるだろう。
私がいう平安は精神も形体もともに高尚に達し、高尚な心身に応じて高まっていく平安であることである。この平安を目的とする教育の趣旨は「足らざるを知りてこれを足すの道を求める」ことである。
またある人は、平安を好むことは感情ではそうだが、現在の実際の状況においてはそうではないと説く。大きくは各国が覇権を争い、小さくは人々が利益をむさぼり、ひどい場合には物を盗み人を殺す者もいる。さらにひどい場合には血気盛んな少年軍人は戦闘を快楽と為し、つねに世の多事騒乱を好んでいるようだ。それゆえに平安の主義は一部の人にしか当てはまらないというが、この問題に答えるのは難しいことではない。国が争うのも人が利益をむさぼるのも自分自身の平安を欲しているだけである。
盗賊は外に対しては乱暴を働くといえども、仲間内では規則を定め、道徳を守って安定した秩序を作ろうとする。社会の外れ者の間でも平安の主義は重んじられている。
また、血気の輩が騒乱を好み、自身の命や利益を省みず殺伐としているのは、内情を見れば自分の名利のためであるが、ただ判断力が乏しいかあるいは事を成すに急ぎすぎて過激になり、本心を表すことができないでいるのである。本人が志すことが大きすぎ、これに対して自分の力は小さくどうしようもないがために、自分の命を犠牲にしてでも大事を成そうと、自分の感情を慰めて愉快と称しているのである。この類の愉快は形体に関係なく、精神的なものである。形体においては安楽と言い、精神においては愉快といい、文字は異なるが、結局平安の主義に含まれるものである。
幕末の血気盛んな志士たちのうち、幸いにも死なずに新政府を建てた者が、社会の平安のために苦慮しているのもこの一例である。人は決して乱を好むものではない。
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