#6 「めんどくさい」に気づいてない場合もある。のか?
めんどくさいの哲学 #6
前回、めんどくさいの特効薬は、「考える」だと言いました。
でもやっかいなのは、めんどくさいに気付かない場合があると、いうことです。
たとえば、「めんどくさいの哲学#3 せっぱつまればめんどくさいはなくなる。のか?」でも言いましたが、大学を卒業したぼくは、小説家になりたいという希望をもっていながら、雑誌の編集ライターの仕事に就きました。文章を書くという、小説家に近しい仕事についていれば、そのうち小説を書くこともできるのではないか? と考えたわけです。一見悪くない選択のように思えますが、じゃあ、小説家になるには何をすればいいのか? 自分は本当に小説家に向いているのか? という具体的に「考える」ことをせずに、30年以上の時間を経て、いまだに小説家にはなっていません。それどころか、ろくに小説など、書いていません。これは、具体的な「考える」をめんどくさがったのではないか? 文章書きという小説家に近しい仕事をすることで、なんとなく解決したと考えていたのではないか?
そう考えると、めんどくさいは自覚されない場合がある。これは一層やっかいな問題です。
めんどくさいと感じている場合は、まだ立ち向かう敵がおぼろげながら見えています。けれど、めんどくさいとすら思わず、問題を避けている自覚もない場合、どうしたらいいのでしょうか?
これは何も、ぼくに限ったことではないと思います。
たとえば受験。
勉強するのがめんどくさいと思った人は、なんとかそれを乗り越え、勉強に励む、あるいは勉強から逃避する。けれどそのとき、自分は何のために受験をするのか? 受験をしてその大学に行って何を学ぶのか? それは自分のためにどういうメリットがあるのか? 将来どんな仕事につきたいと考えているのか? といった根本的な問題について、考えるのを避けているのではないでしょうか? もちろん、きちんと考えている人もいると思います。でも、多くの人は、今は将来のことはわからない。けれど、いい大学にいけば、選択肢だって増えるはずだ。だから、とりあえず、可能な限りいい大学に行こう、と考えているのではないでしょうか?
要するに、それって本当に自分のためになるのか? そういう自己ツッコミをするのがめんどくさくて、受験という名の環境に乗っかっているだけなのではないでしょうか?
いま、「ツッコミ」という言葉を使いましたが、これは哲学者の千葉雅也さんの『勉強の哲学』に出てくる言葉です。千葉さんは、「勉強」は「ツッコミ」から始まると言います。たとえば、芸能人が不倫をしているという話題のときに、「あの人は悪いね」「幻滅だよね」という会話は、その場の空気に「のった」ものです。ところが、「でも、そもそも不倫って悪いことなのかな?」というように、そもそも論的な疑問を発する。これが「ツッコミ」です。人は知らず知らずのうちに、まわりの空気に合わせて、本当は自分はどう思っているのか? を考えず、流されることが多い。つまり、考えていないことに気づいていないまま、考えをのべることがあるのです。そこで、周りが引いてしまうような発言をして、場の空気を壊すことは面倒くさいという思いが、どこかにある。それに気づきもせずに、流されていくことが「のる」ということです。
しかし、そこで「そもそも不倫って悪いことなのかな?」という問いが発せられた途端に、考えるが始まります。「不倫とはどういうことか?」「夫婦という制度は、何のためにあるのか?」「それは普遍的なものなのか?」そして「悪いとは、どういうことなのか?」というように、問いは連鎖し、発展し、深掘りしていきます。これが勉強する=考えるということのスタートだと、千葉さんは言っていると思います。
ぼくは、めんどくさいと感じるときさえ、何がめんどくさいか気づいてない場合があります。「何がめんどくさいの?」と問うことさえめんどくさいということに気付いていない。気付いていないときに、問いを発してツッコムにはどうしたらいいのか。次回はそのことについて考えてみたいと思います。
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