謎解き『バックストローク』(小川洋子)③ ―「病院」に生きる弟―
〈目次〉
6 「処刑場」へ行く「わたし」
7 「病院」に生きる弟
8 弟はすでに亡くなっている
6 処刑場へ行く「わたし」
「わたし」が東欧の小さな町のはずれにある強制収容所を訪れたのは、正確には分かりませんが、弟の左腕が抜け落ちてから10年近く経った頃です。
細かいことを言うと、弟が入院して10年、その一年半ほど前に訪れました。
この10年ほどの間も、「わたし」は多くのプールと出会ってきました。
プールを見つけるとつい立ち止まり、あらゆる点について観察します。
プールがあるだけで、それは「わたし」にとって特別な風景になると言います。
それらはみな水をたたえ、丁寧に管理されたきれいなプールばかりです。
そして、それはまだ辛うじて絆を保っていた時代の家族を思い出す風景でもあります。
だから特別なのでしょう。
プールは、人の努力や目標、向上心や競争心だけが詰まった世界ではなく、家族愛や師弟愛、友情などのドラマに溢れる世界でもあります。
「わたし」の場合は、そこに自己愛や甲高い声、無関心や酒の匂い、美しい泳ぎ方と遠くを見つめる瞳も混じり合っています。
小説家としての「わたし」にとっても、特別な風景なのでしょう。
しかし、強制収容所のプールは違いました。
水はなく、ステップの手すりは錆びつき、コンクリートはひび割れ、すき間から雑草が伸びています。
もう長い間、人の泳いでいないプールです。
私たちは普通、荒廃したプールにお目にかかることなど、まずありません。
しかし、「わたし」の場合は身近に存在しました。
自宅のプールです。
青年が教えてくれます。
「収容所の看守とその家族が、ここで休日を楽しみました。囚人たちが作りました」と。
「わたし」の脳裏では、荒廃したプールに水がたたえられ、冷酷な看守とその家族たちが水遊びをする映像が浮かび上がり、そして消えていったことでしょう。
後に残るのは、「巨大な石の棺」であり、「中は途方もなく深い空洞に満たされて」います。
「わたし」は自分の家のプールを連想したことでしょう。
水を失ったプールは、家族の「死」の象徴です。
父は肝硬変で死に、その棺はプールの底を斜めに横切って霊柩車に乗せられました。
母は背泳ぎに関する品をすべてプールで焼きましたが、これは「弟殺し」の象徴的行為です。
弟を殺すことで、弟に依存していた自分自身も「死」に追いやったと言えます。
母のその後については書かれていませんが、廃人のようになってしまったのではないでしょうか。
プールに水がなくなったことで、家族も解体され、終焉を迎えました。
水を湛えていた時のそのプールは、家族の絆の象徴です。
しかし、そこに集ったのは、支配欲を愛情と勘違いしていた母と、家族には無関心だったアル中の父、そして弟の目の前でだけ弟に優しかった「わたし」自身です。
そしてそのプールを陰で支えていたのは弟です。
迫害され、酷使され、最後は残酷な方法で殺された囚人たちと弟を同列に扱うことはできませんが、冷酷な「家族」に虐待されたという点は同じです。
だから、「わたし」はこの時、突然気分が悪くなり、動悸がして血の気が引き、その場に蹲ったのではないでしょうか。
今まで見ないようにしてきた「わたし」の「悪」に、否応なしに気づかせられたのです。
「わたし」は確かに直接弟を虐待したことなどありません。
むしろ弟に寄り添う唯一の善人であるかに見えます。
しかし、「わたし」も結局は、愛という名目で弟を支配しようとする母の共犯者でした。
弟の味方のようなふりをしながら、一度も弟の側に立つことはありませんでした。
一人で家族を支えようとしていた弟の気持ちも理解せず、家族の絆の恩恵だけは享受しながら、家族を支える努力は何もしませんでした。
弟の悲しみ、孤独、絶望、けなげさ、やりきれなさ……。
強制収容所の荒廃したプールの背景を聞いて、「わたし」も初めて弟の「本当の気持ち」について、気づいてしまったのではないでしょうか。
だから、立っていられなくなったのです。
蹲った「わたし」を青年が介抱してくれました。
彼は「わたし」の額に浮かぶ汗をハンカチで拭い、もう片方の手で背中をさすってくれました。
「わたし」は背中に触れる青年の掌を、弟の手のように感じます。
なぜこの時、「わたし」は青年に弟の影を重ね合わせたのでしょう。
彼が「優しく慎み深い青年だった」からでしょうか。
それもあるでしょう。
しかし、それ以上に、青年が弟のように「わたしの求めるものを何でも差し出すことができた」からではないでしょうか。
「わたし」が蹲った時、「すぐさまわたしを抱きかかえ、ポプラの木陰に坐らせ」てくれました。
「額に浮かぶ汗をハンカチで拭い、もう片方の手で背中をさすってくれ」ました。
「時折彼はわたしの表情をうかがい、元気づけるように微笑」みました。
最後には、ホテルに戻ることを勧め、車の手配までしてくれようとしました。
必要なものを具体的に提供し、「わたし」を助けてくれています。
これは弟の姿そのものではありませんか。
一見弟の側に立ったようでありながら、実は何ら弟に救いの手を伸ばさなかった「わたし」とは真逆です。
「いいえ、いいのよ。どうもありがとう。処刑場へ行きましょう」
「わたし」は青年の申し出を断りました。
ホテルに戻って休むことなどできなかったのでしょう。
その前にしなければならないことがあります。
それは「わたし」自身の「処刑」です。
7 「病院」に生きる弟
強制収容所での衝撃的な体験を自分の中で整理し、立ち直って「手記」にまとめるまで、「わたし」には一年半ほどの時間が必要だったのでしょう。
「わたし」はまず、自分の弟に対する認識や振舞を断罪したことだと思われます。
それが例えば次のような表現に現れています。
「だからわたしの記憶の中にいる弟は、いつも髪が濡れている。」…弟を「いつも背泳ぎをするだけの人」だと勘違いしていたのです。
「弟とは二つ違いだったが、いつの頃からか彼の方が年上だと感じることが多くなった。」…すでにお話ししましたが、弟を表面的にしか見ていなかったということです。
認識の変更は、弟の評価への変更につながります。
「少なくとも弟のおかげで、あの時代、わたしたち家族はどうにか絆を保っていた。弟の背泳ぎ、それがすべての源であり、唯一の救いだった。」
…「あの時代」という言い方は、この評価が現在の視点からのものであることを表しています。
今になってやっと「弟のおかげ」であったことを知ったということでしょう。
小説『バックストローク』の時間軸が妙に複雑なのは、これが理由です。
弟はその後、どうなったでしょうか。
ある病院に入院して十年が経つといいます。
弟からは一ヵ月に一度くらい手紙が来ます。
――病院の中庭には、貝殻の形をしたプールがあって、自由に入ることができます。清潔で気持ちのいいプールです。掃除は全部僕たち患者が交替で受け持ちます。ただちょっと狭いので、4ストロークで端から端まで行ってしまいます。物足りませんが仕方ありません。
ここでもやはり、僕は背泳ぎ専門です。みんな上手だと誉めてくれるので、得意になって泳いでいます。
毎回、どの手紙にもプールのことが書いてある。彼が入院して、はや十年になる。――
弟は何の病気で入院したのでしょうか。
左腕が抜け落ちたからでしょうか。
仮にそうだとしても、痛みもなく血も出なかったのだから軽症であり、十年も引き続き入院するはずがありません。
精神科だという解釈もありますが、現実の精神科病棟は閉鎖病棟であり、自由にプールに入れるはずがありません。
残念ながら、現実の精神科はそれほど自由でもないし、明るくもありません。
そもそもプールのある病院などごくわずかですし、あったとしてもリハビリ用のプールです。
そのようなプールは、だいたい屋内にあり、かなりの大きさを持っており、形も四角形です。
屋外にある貝殻の形をした小さなプールなど、遊園地やリゾートホテルならともかく、病院にあるとは思えません。
病院についての記述は非常に奇妙ですが、しかし、このことから実に多くのことを読み取ることができます。
第一に、プールの清掃を患者たちが交替で受け持っている点です。
病院のプールを患者が清掃することはあり得ませんが、このことが示唆する事柄は深いと言えるでしょう。
つまり、病院のプールの維持管理は、当事者全員が平等に担当していたということです。
「わたし」の家のプールは、水を湛えていた時、家族にとって「最後の救い」であったにもかかわらず、その維持管理は弟だけが担っていました。
弟が、なぜ書く必要があるとも思われないプールの清掃についてわざわざ書き記したのか、その理由はこの行為の意味の重要性を彼が認識していたからでしょう。
第二に、プールが貝殻の形をしている点です。
これはその「病院」が夢のような世界であることを表しています。
まるでおとぎの国のプールのようです。
貝殻の形をしているということは、形が四角形ではないということです。
4ストロークで端から端まで行ってしまうのですから、小さいプールです。
つまり、「巨大な石の棺」の形のプールではないということです。
貝殻の形のプールは、死を象徴せず、生を象徴しているということです。
第三に、弟の背泳ぎをみんなが誉めてくれていて、弟は得意になって泳いでいるという点です。
弟の、家族(とお手伝いさん)以外の人との交流がここで初めて描かれています。
弟にとって初めて「友達」と呼べる人たちができたのでしょう。
プールは小さいから物足りないと感じていますが、弟はこのプールで背泳ぎすることで初めて心が満たされています。
毎回、どの手紙にもプールのことが書かれているのは、弟にプールの世界しかないからではなく、貝殻の形のプールで背泳ぎすることが弟にとっての自由であり、心の解放であるからです。
弟が病院の何科に入院したかなど、実は大した問題ではありません。
病院という不自由で不安な空間の中で、弟が自由と平安を手に入れたということが大切なのです。
8 弟はすでに亡くなっている
弟はどうするべきだったのでしょうか。
もっと早く母の支配から脱するべきだったのでしょうか。
自我が目覚める反抗期とやらに、人並みに母に逆らっていたら左腕がもげることもなかったし、病院に十年も入院することもなかったのでしょうか。
そうかもしれません。
ただそれは、私たちが傍観者だからそう言えるだけでしょう。
弟は背泳ぎが好きだったから、母に反抗しなかった可能性もあります。
弟には背泳ぎしかなかったとしても、それは必ずしも悪い意味ばかりを表すわけではありません。
それにこのような意見は、彼が背泳ぎを続けることで家族が守られたことを忘れています。
私たちは往々にして他人に厳しく自分に甘いから、人の失敗を見て、自分ならもっとうまくやれたとほくそ笑みます。
だが、そううまくいくでしょうか。
弟の境遇は極端ではありますが、ある面では誰しも似たような境遇にあると言えます。
全員幼い頃から学校という名の「スイミングスクール」に通わされ、先生という名の「母」に支配されます。
小説のように極端ではないだけです。
勉強の意味も分からないまま幼い頃から学び続け、勉強の意味を問うても茫漠たる答えが待っているだけ。
強制される勉強は嫌だと言って親や先生に反抗したところで、問題が解決するわけでもありません。
流石に部屋の隅に入り込む人はいないでしょうが、ネットの世界という〝隅〟に引きこもる人も少なくないと聞きます。
母のように自己愛や支配欲を他者への愛だと勘違いしている人や、父のように自分の嗜好するものに溺れ、家族にすら無関心であるような人も身近にいそうです。
ただ、多くの人は破滅にまで至らないだけです。
強い人には下手に出るが、相手が弱いとなると途端に偉そうな態度をとる人たちの振る舞いを見ていると、自分を含め、母的な要素を持つ人はけっこういるのではないかと思ってしまいます。
この小説の登場人物には歪な人格の持ち主が多かったですが、そもそも小説を読む際には、私たち自身にも多かれ少なかれよく似た部分があると思って読んだほうがいいでしょう。
ただ、この病的な人物ばかりが登場する『バックストローク』の中にも、目立たないですが、善良な人がいました。
お手伝いさんです。
彼女が登場する場面は次のように描かれます。
――「あの頃、お手伝いさんに頼まれ、夕食の用意ができたと家族中に知らせるのが、毎日のわたしの役目だった。――
つまり、お手伝いさんが「わたし」の家族をまとめる中心であったということです。
母が庭にプールを作ると言った時、「お手伝いさんは感嘆とも驚愕ともつかない声を漏らした。」
「感嘆」は建前です。
雇い主の家庭内の事に否定的な言動はできません。
「驚愕」がお手伝いさんの本音です。
「そんなことをしてもいいのか」、「それが本当に弟のためになるのか」という疑いの気持ちを少しでも表してくれたのは、お手伝いさんだけです。
クリームシチューの鍋の把手が折れた時、「善良なお手伝いさんは半べそをかきながら謝った。」
「わたし」も、ここでお手伝いさんの善良さを認めています。
「お手伝いさんは結婚し、家を出て行った。お別れの時、差し上げられたままの弟の手を撫で、涙を流した。」
小説の中で弟のために泣いたのはお手伝いさんだけです。
弟のことを本当に理解していたのは、家族ではなく、お手伝いさんだったのではないでしょうか。
そのお手伝いさんも家を離れ、弟は誰にも理解されないまま、病院に入院しました。
入院理由は不明ですが、プールが貝殻の形をしていることは、その「病院」が夢のような世界であることを表している、と私は言いました。
本当は、手紙の内容自体が夢なのかもしれません。
そうだとすれば、弟は精神科に入院した可能性があります。
しかし、私は、弟はおそらくもう死んでしまっただろうと思っています。
弟は死後の世界から姉に手紙を送っていたのでしょうか。
いえ、弟は一カ月に一度くらい姉の心に蘇り、姉は心の中で弟の鎮魂をしていたのです。
弟が前世の話をした時、最後にこう言いました。
「もし今度死んだら、骨にして、お姉ちゃんのお腹に入れておいてよ」と。
それを聞いた姉はこう考えます。
「弟は自分がどこから来たか、これからどこへ行くか、ちゃんと知っていた」と。
つまり、最後には弟は骨になり、姉のお腹(心)の中にいるということです。
悲しい結末ですが。
姉は死んだ弟を貝殻の形のプールがある病院に蘇らせました。
そこには、背泳ぎをする弟とそれを誉めてくれる「みんな」がいます。
掃除も「みんな」でします……。
そこは弟の理想世界です。
弟はその世界で生き生きとしているではありませんか。
……これは妄想でしょうか?
姉は道義的に弟を殺しました。
母の共犯者として。
弟の理解者になり得なかった者として。
少なくとも、姉自身、そう思ったのではないでしょうか。
だから、強制収容所のプールを見て蹲ってしまったのだし、青年の申し出を断り、自ら「処刑場へ行きましょう」と言ったのです。
姉は自分が許せなくなったのです。
しかし、結末のシーンを思い出してください。
青年は「わたし」の肩を抱いてくれています。
青年はもちろん弟です。
弟はどこまでも優しい。
どんなに自分が理解されなくても、母にも父にも「わたし」にも優しい。
弟は「わたし」を拒否していませんし、断罪もしていません。
そこにこの小説の「最後の救い」があります。
〈初出〉YouTube 音羽居士「謎解き『バックストローク』①~③」2022年6月 一部改