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インドネシアの教育から見る「自分の意見を持つことの重要性」

自分の意見を持つことの重要性については、もうかなり前から言われてきました。
おそらく昭和の終わりごろからこの重要性がうたわれるようになり、平成を通じて現在では周知の事実ではないでしょうか?
ではなぜ自分の意見を持つことがなぜ重要なのでしょうか?

先日インドネシアの方と教育について話す機会があり、インドネシアでも学生が自分の意見をあまり持っておらず、先生から質問されると困ってしまうことが多々あるそうです。

日本とインドネシアの教育の共通点と、なぜ自分の意見を持つことが重要なのかについて今回は書いていきたいと思います。

インドネシアの教育について


インドネシアの教育制度は日本と同じように小学校の6年間,中学校の3年間が義務教育とされています。そして,高校が3年間,その後は大学などの高等教育に続きます。
 日本と大きく違うのは,小学校,中学校,高校すべての段階で卒業するための統一国家試験が実施されているところです。基準点が設けられ,それを下回ると学校を卒業することができないことがあります。

 また,学校の種類にも,日本の文部科学省にあたる教育文化省管轄の一般の学校と,宗教省管轄のイスラームの考えや伝統に沿った教育を行うマドラサやプサントレンと呼ばれる学校があります。インドネシアで最も多数を占めるのはイスラーム教徒ですが,プロテスタント,カトリック,ヒンズー教,仏教などを信じる人々もおり,一般の学校でもそれぞれの宗教に合わせて宗教の授業が設けられています。また,この2種類の学校については,例えば,小学校は一般の学校に行って,その後,マドラサに入ることもできるなど,自由に進学できることになっています。

外務省:世界の教育を見てみよう!

今回も外務省:世界の学校を見てみよう!にお世話になりつつ、

インドネシアでは公立も私立も同じくらいの数があるそうで、私立では専ら上記のような宗教教育を行っている学校が多いようです。

もう一つの特徴として、私立学校の方が公立学校と比べて教育の質が高いんだとか。
具体的には使われる教材や教えている授業内容の鮮度が違うそうです。
公立では使われる教材も教えている内容も私立で教えているそれより3年ほど遅れているんだそうです。
これは、私立学校が他国からお金をかけて最新の情報(教材)を買えるのに対し、公立学校は政府が配布する他国の古くなった教材を使わざるを得ない状況が原因なんだそうです。

さらに、全体的に教員の給料は少なく
教員のモチベーションが低いこともインドネシアの教育の問題なんだとか。

そしてもう一つ、インドネシアの生徒・学生の特徴として
「自分の意見を持っている人が少ない」というのがあるんだそうです。
特に大学生になり、教授から「どう思いますか?」「意見はありますか?」と聞かれた時になんと答えていいかわからず、困っている姿がよく見られるんだとか。

日本ではデフォルトになりつつ光景ですよね。
僕が大学生や教員をしていた時は、日常茶飯事でした。
(今は少し変わってきてたりするのかな?)

自分の意見を持つことはなぜ重要なのか


そもそも、本当に日本人は自分の意見を持っていないのでしょうか?
一概に「持っていない」ということはできないかもしれませんが、
受け身な生徒が多いことは明らかだと思います。

日本財団が2022年に実施した「18歳意識調査」
日本、アメリカ、イギリス、中国、韓国、インドの18歳の方々からアンケートを取ったところ
「政治や選挙、 社会問題について、 自分の考えを持っている」
日本人は42.1%で6位
「将来の夢を持っている」
日本人は59.6%で6位

https://www.nippon-foundation.or.jp/app/uploads/2022/03/new_pr_20220323_03.pdf

こういった数値からもそうですし、
前職で日本と海外の数千人の子供たちを見てきた感覚値としても
やはり日本人が自分の意見をはっきりと言う場面は
海外の方のそれと比較するとかなり珍しいです。

では、なぜ自分の意見を持つことは重要なのでしょうか?

挙げられる理由はたくさんあります。
「科学技術の進歩により単純労働が減っていく」
「社会的により高いポジションにつくために必要」
など、自身の有用性を上げるためにも
自分の意見を明確に持つこと、それを相手に伝えられることはとても大きな意味があります。

自分の意見を持つことで相手と対立することもあります。
日本では和をもって尊しとし、過剰に対立を避ける傾向があります。
しかし、この多様性が重んじられる時代に、他者との違いを無視することは不可能です。
意見の対立を受け止め、その上でうまく付き合っていく方法を身につける必要があるのではないでしょうか?

こういった様々な意見がある中で
僕は「自分の人生に責任を持つために自分の意見を持つべき」だと考えてます。

自分の意見を持つということは自分の考えや意見を知ることだと考えています。そしてその最初のステップは自分の好きなものを知ることではないでしょうか?

自分は何が好きなのか、何に同意し、何を受け入れるのか、
それを自分に問い、他者の意見を聞き、自分なりの答えを見つけていく過程が、自分の意見を持つことだと考えています。

だとすると、自分の意見を持たずに生きていく(自分の人生を決定していく)とどうなるのでしょう?

自分の好きを持たずに、誰かの意見や考え、同調圧力や常識をもとに自分の人生を決定した場合
必ず言い訳をするようになります。
自分の人生の責任を誰かのせいにして、自分は悪くないと考えるようになります。

これが、自分の意見を持たないことによって引き起こされる1番悲劇的なことなのではないでしょうか。

責任の擦り付けは多くの場合、その人が育った環境、社会に向けられます。
子どもにとって、大人とはその社会の代名詞だと思っています。
自分が暮らす社会を体現する、自分の近くにいる大人に対して、その責任を押し付けることはよく見られる光景です。

大人からすれば、
「良かれと思いアドバイスをしていたつもりが、子どもたちがそれを鵜呑みにしてしまい逆恨みされる。」
子どもからすると、
「いつも意見を押し付けてきてばかりで自分の意見なんて聞いてくれないから、考えることをやめた。その結果幸せになれてないのはもちろん自分のせいじゃない!」

といった状況が目に浮かびます。
自分の意見を持てなくする教育は悲劇しか生みません。
だからこそ
「君はどうしたい?」
と聞き続けることが重要なんだと感じます。


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