そして誰もいなくなったー成田悠輔『22世紀の民主主義』を読んでみた
経済学者、データ科学者、半熟仮想株式会社代表の成田悠輔が『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』を2022年7月にSBクリエイティブからリリース。20万部を超える大ベストセラーになっています。
ひとことで要約すると「素人」が考えた新しい民主主義のアイデア集です。著者自身がこの本のテーマについては素人であるとことわっています。確かに政治学者ではないですもんね。でもそれによってこの本の価値が下がるとは思いません。素人だからこそのアイデアもあるはず。
要約しつつ、二つの論点について考えたいと思います。
ダメな民主主義
この20年、民主主義的な国ほど経済成長が低迷していることが様々なデータに基づき説明されます。説得力あります。なんといってもエビデンスがあるのです。たんに相関関係があるだけでなく、因果関係もあるとのこと。つまり悪者は民主主義らしいのです。その因果関係についてもエビデンス(英語)がWebに掲載されています。本書にURLが示されています。が、難しそうだったので私はスルーしてしまいました。恥ずかしい。興味のある方はぜひアクセスを。
さらに民主主義的な国ほどコロナ死者数が多いこと、政治家によるヘイトスピーチが多いこと、政治的分断が高まっていることなども指摘されます。
民主主義やばすぎではと心配になります。
対策
本書では、対処療法や民主主義からの脱出方法が検討されます。前者については政治家の報酬制度を変える、SNSへの規制、選挙システムの変更など、後者については独立国家のつくりかたなどが紹介されますが、あまり説明に力が入っていないように感じます。最後にラディカルな提案が紹介されるのですが、そこに辿り着くために手続きとして対処療法と脱出方法を紹介している感じです。そのラディカルな提案が無意識民主主義と呼ばれるシステムの導入です。
無意識民主主義
無意識民主主義は本書のキー概念です。どのような概念か引用します。
すでに世界はこの方向に進行中だと思います。
こんな世界での人間の役割は異常値が出た時にストップをかけることくらいだとのこと。
資本主義の世界では、既に10年以上前から同じようなことが言われています。たとえばyoutubeに掲載されている「アルゴリズムが形作る世界」(ケヴィン・スラヴィン)。時は2010年頃。米国株式市場はすでに70%がアルゴリズム間競争になっていますが、株式市場の9%が5分間で消滅したとのこと。原因は不明。人間にできるのはデータを眺めることと停止ボタンを押すことくらいなのだそうです。(とくに3分30秒くらいから5分30秒くらい参照)
こう説明されるとすぐに2つの論点が思い浮びます。一つは誰がそのアルゴリズムをつくり、どうやって納得を得た上で実装するのか。もう一つは無意識民主主義のデータ提供者たちは人間といえるか。
アルゴリズムをつくるのは誰
素人(私のことです)の直感としては、アルゴリズム開発者の都合によってさまざまな意思決定の調整ができてしまうのではないかという心配があります。著者も気づいているようで、
アルゴリズムの公開が提案されています。専門家の間でレビューできるようにして客観性を確保するということだと思いますが、コロナ対策の時に学んだのは専門家の意見をまとめるのは超たいへんということではなかったでしょうか。それともアルゴリズムや数学の世界では客観性を担保できるのでしょうか。
また、今日正しいことが100年後も正しいとは限りません。むかし愛と呼ばれていたものが今日ではハラスメントと呼ばれます。
正しさをどうやって決めるのか、難題です。
最高裁裁判官国民審査制度と同様にアルゴリズム仕様決定者審査制度のようなものが必要になりそうです。
結局、選挙のようなものが必要な気が…
そして誰もいなくなった
少数のアルゴリズム開発者は人間である前提ですが、その他には人間はいなくなる。そんなバカなと思うでしょうが、成田が明確にのべています。
入力側とはSNSやセンサーなどに意識的・無意識的に入力する私たち、出力側はアルゴリズムによる計算結果のことです。
これについて考えてみたいと思います。
本書の脚注の中に以下の文章があります。
そこで東浩紀の「一般意志2.0」を確認してみます。
東はインタビュー(聞き手 哲学者の宮﨑裕助)で説明しています。
どうやら東の「一般意志2.0」には熟議つまり意識が存在しています。
「一般意志2.0」=無意識と意識のインターフェース
成田と東には大きな誤解がありそうです。
それはさておき、なぜ熟議が必要か『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』(東浩紀 講談社 2011年)を確認します。
20世紀を代表する思想家であるアーレントとハーバーマスが、政治と公共性はとことん話しあうこと、そのコミュニケーションの分厚さで基礎づけられるのだと主張したことを受けつつも、現代では熟議の理想の成立は難しいので、熟議の内容を切り詰めたうえで、かろうじて残る「熟議らしきもの」をどのように育てていくのか、具体的な方法を語ったほうがよいと記されています。(74P、119-120P)
そうなると「熟議らしきもの」を排除できない根拠を考えたくなります。本当に排除できないのでしょうか。こんどは文庫版の方の『一般意志2.0』(東浩紀 講談社文庫 2015年)に掲載されている東と政治学者 宇野重規との対談をみてみます。この対談は文庫版のみに掲載されています。
この引用だけではわかりにくいですが、ここではラカンの象徴界と想像界の二重構造について語られています。象徴界は言葉に代表されるようなロジックの世界。想像界は見た感じ、触れた感じなど感覚的な世界を指します。かつて読んだ千葉雅也の『現代思想入門』によるとカントの言葉では象徴界は悟性、想像界は感性となります。また、象徴界(悟性)と想像界(感性)が合わさって認識を成り立たせ、世界を現象としてとらえています。つまりこの片方(象徴界および悟性)が消滅すると認識と現象が消滅することになります。
無意識民主主義は、人間から認識と現象を奪うと考えられます。
では認識と現象のない世界とはどのような世界なのでしょうか。
批評家 浅田彰は『構造と力』で、本能のような自然の秩序からズレてしまったことが人間のスタート地点であるといいます。だから自然の秩序のかわりに文化の秩序を打ち立てねばならなかった。
人間のスタート地点がどのような環境か説明しています。ここではまだ認識と現象は生じていません。
サンスとは英語のsense、ピュシスとは自然のことで、ピュシスが指し示していたあの矢印とは、本能という指針といったような意味になると思います。それが狂う。
いやいや、冷静に説明している場合ではありません。これが本当なら、無意識民主主義はあり得ません。怖すぎます。
それにしても表現が詩的です。認識と現象以前の世界を記述しようとするとロジックなんてないので詩的になるのかもしれませんが。
自然科学ではどのような議論が行われているのか気になるところですが、全く調査できておりません。今後の課題にしたいと思います。
まとめ
無意識民主主義では少数のアルゴリズム作成者だけが人間で、大多数は人間ではない何かになります。現時点では象徴界を失うということがどういうことなのかよくわからない(浅田の説明はありますが)ので、象徴界を手放す議論は時期尚早だと思います。
追伸
一昨日、東が編集長をつとめる批評誌『ゲンロン13』が届きました。最新号です。
これに掲載されている東の論文には『22世紀の民主主義』がとりあげられることが予告されていましたので、楽しみに待っていました。
急いで目をとおしました。
最も印象に残った箇所を引用します。無意識民主主義の論理の問題を指摘しています。
無意識民主主義は自分に似た人の傾向を押しつけます。そこには私という主体はありません。
確かにこれは勘弁してほしい。
長くなったので、今回はここまでにします。『ゲンロン13』についてはゆっくり読んで改めて記事にしたいと思います。
そういえば、成田と東が対談します。イベント会場での観覧は売り切れのようですが、配信(アーカイブあり)でみることができると思います。興味のある方は下記リンクを参照ください。私はみます。
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