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自己は他者の先に行くことはできないー高橋哲哉『デリダ』を読んでみた
「デリダってでりだ?」といったのは、筒井康隆だったか、筒井が生み出したキャラクター唯野教授だったか。「くっ、くだらなすぎる」と苦笑した記憶がある。というかその記憶しかない。
この言葉の意味を私はまったくわかっていませんでした。筒井先生、ごめんなさい。『デリダ 脱構築と正義』(高橋哲哉 講談社学術文庫 2015年、この原本は1998年に「現代思想の冒険者たち」第28巻として刊行)を読んでそのことに気づきました。辞書に載ってるデリダの項目には現前するデリダ、他者としてのデリダが排除されています。その排除されたものを筒井先生は「でりだ?」ということで取り戻そうとしたのではないでしょうか。「デリダってでりだ?」とはデリダ哲学の本質だったのです。(たぶん)
今回は『デリダ 脱構築と正義』を読んで感動したことを書きたいと思います。なお、私はデリダ関係では『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』(東浩紀 新潮社 1998年)を読んでいます。その時にはわからなかったけれど、今回気づいたことが話題の中心になりそうです。
ロゴス(原義)=パロール
デリダは西洋中心主義批判、形而上学批判、音声中心主義批判を行なっていると言われます。このことをわかった気になっていましたが、わかっていませんでした。
王はエクリチュールを自分の臣下から受け取る。これはつまり、王は書かない。神は書かないということである。…王は書くことなく語る主体であって、自分の声をただ書きとらせるだけなのだ。ちょうどソクラテスが何ひとつ書かず、ただ、プラトンにその声を書きとらせただけのように。
あまりにも端的に説明してくれます。王はメタレベル、臣下はオブジェクトレベルのことでしょう。メタレベルは書かない。確かに。だから神も王も師匠のソクラテスも書かない。書くのは弟子のプラトン。形而上学の発生地点がすでに音声中心主義だったのですね。わかりやすくて感動します。
充実したパロールからエクリチュールへの頽落は、すべてが完全な天上界から地上界への落下、純粋な精神が肉体をもってしまった過ちにも似ている。
メタレベル(パロール、音声、意味)がオプジェクトレベルで肉体(エクリチュール、書き言葉、文字)をもってしまったことを過ちとしているのですね。
形而上学とは、まず第一にロゴス中心主義(ロゴセントリズム)である。「ロゴス」とはこの場合、狭義の論理、概念性、合理性などを意味するだけではない。それはギリシャ語の原義にそくして、レゲイン(語ること)から、語られた言葉、パロールとして理解されている。
なんと。ロゴスの原義はパロール。し、知りませんでした。言われてみれば、ロゴス中心主義と音声中心主義の違いにモヤっとしたものがあったような気がします。エクリチュール(の大部分)だってロゴスに含まれるだろうと考えていたからです。しかしもともとはパロールのことだったのですね。スッキリしました。
『新約聖書』「ヨハネ福音書」の冒頭部分、「はじめにロゴスありき。ロゴスは神とともにありき。ロゴスは神なりき」は象徴的だ。
ロゴス=音声に読み替えると、そりゃ音声中心主義になりますね。音声は神なのですから。それにしても、福音とか音声という言葉をつくった人こそ、ネ申だと思いました。福音より福声の方がよかったかもしれないのに、音を選択した。音声とは声だけでよかったかもしれないのに、あえて音を付けた。音は物理的な波のことなので、エクリチュールということもできます。福音も音声も物質性が強調されています。
そういえば、映画『ドライブ・マイ・カー』の死んだ主人公の妻の氏名は家福音。福音が死んだと解釈していたのですが、音が死んだことの方が重要だったのかもしれません。
コーラ=母
デリダは形而上学をソクラテスープラトンの関係、父ー正嫡の息子関係で説明します。一方エクリチュールを私生児、散種=dissémination(種まき)と説明します。そしてこの語幹semenは精子です。では母あるいは子宮はどのように説明されるのでしょうか。
コーラがまた、「すべてのものの刻印が刻まれる地の台」であって、コーラにおける事物の生成とは、「形のないもの」にはじめて形が書きこまれる運動にほかならないとしたら…。コーラの議論はデリダにとって「世界の起源を痕跡として、すなわち、母胎、受容者のなかへの形の書きこみ、図式の書きこみとして定義すること」に導くものだ。
私生児(エクリチュール)であっても母胎(コーラ)と受精(散種)が必要です。では何が母胎に書きこまれるのか。やはり遺伝子でしょうか。遺伝子=エクリチュールと考えるといろんなことがしっくりきそうな予感がします。
差異の戯れ=差延=中動態
「差異の戯れ」。この「戯れ」、積年の謎でした。これに光を与えてくれます。
たとえば、ルソーは、エクリチュールを文明の悪、人間を本来の自然から堕落させる死んだ技術として口をきわめて断罪する一方、中世以来の<神ないし自然による書きこみ>の隠喩的伝統を引きつぎ、「神の手によって人間の魂に書きこまれた自然法」について、また「私の心の奥底に消し去ることのできぬ文字で書きこまれた」「自然の神聖な声」について語るのである…。
エクリチュールを批判しておきながら、遺伝子的エクリチュールの存在に気づいてしまうルソー。すごい。
純粋な内部(自己)と見えたものの内部にたえず外部(他者)をもちこみ、内部(自己)と外部(他者)の差異を「決定不可能」なままに生み出しつづけていく、この差異化の運動こそ「差延」である。
さきほどのルソーの例でいうと、音声の中に遺伝子がある。そしてこの二つには差異が生じてしまう。
この(差延の)運動は、「差異を生み出す」とはいっても、当然ながら、能動/受動の二項対立の手前で考えられねばならない(デリダはアナロジーとして、ギリシャ語文法にある「中動相」を喚起している)。…差異の戯れとは、もろもろの差異が抹消不可能かつ決定不可能な仕方で、つぎつぎに生まれつづける運動である。
なんと!『中動態の世界』(國分功一郎 医学書院 2017年)読んだ時に、脱構築っぽいなと思ったけれども、それもそのはず。そもそもデリダが重要性を指摘していたんですね。デリダ、すごい。そして積年の謎「戯れ」についても光がさしました。ありがたい。
死の欲動は言葉の発信から生じる
フロイトの「死の欲動」も、よくわからない概念だったのですが、ヒントをもらえたような気がします。
「私は生きている」というパロールは、私がその場に不在であったり、私が死んでいたとしても理解可能であるのでなければ、私が現前していたり、私が生きているときにも理解可能にはならない。…そのうえ私が生きているのか死んでいるのかという事実とはまったく無関係である。それは、「それが機能する瞬間に私が死んでいることもありうるのでないかぎり、それがあるところのものではない」。したがって「私は生きている」と言うためには「私の死が構造的に必要である」。
パロールであれ、エクリチュールであれ、言葉を発信するということは発信者の死をあらかじめ織り込み済みであるというか、織り込んでいなければ発信できないということですね。構造的に必要ということは無意識に織り込まれている、もし遺伝子に書き込まれているとすれば、ここから死の欲動を説明できるかもしれません。死ぬからこそ「生きる」という言葉が生まれる、死がなければ、たぶん「生きる」という言葉は生まれません。
自己は他者の先に行くことはできない
他者。ふだんの会話でもたまに使う単語ですが、これの理解もぼんやりしていました。
自己は他者の先に行くことはできない。絶対的起源としての自己なるものは存在しない。…<私は存在する>の自己への現前に先立ち、「<私>の措定」にも「存在の措定」にも先立つがために、この他者からの呼びかけが
<私>に対して現前し、<私>の現在において聞かれることはけっしてない。<私>がそれに気づくときには、この呼びかけは常にすでに”過ぎ去って”しまったものであり、つねにすでに「痕跡」であり、「かつて一度も現前したことがなかった過去」の「記憶」なのだ。
人はふだん0.1秒後の未来をシミュレーションした像を知覚していて、0.1秒後にシミュレーションとは異なる現実が到来した時にだけ、現実を知覚できる
と言ったのは理論神経生物学者マーク・チャンギージーですが、これを思い出します。つまり、ふだん脳が知覚している像は決して現前しない虚構の像です。現前するのはその虚構の像が到来しなかった時、交通事故などのようにシミュレーションがズレた時だけ。そしてこの現前に無意識が反応するのは現前の0.1秒後、意識が認知するのは現前の0.3秒後。つまり現前とは、語義矛盾のようですが「かつて一度も現前したことがなかった過去」の「記憶」のことです。現実は現前しない。私たちにはリアルタイムに現実を知ることは決してできない。
責任ある決定は夜のなかでなされる
すっかり忘れていた「夜」問題。それは中島みゆきの「夜を往け」を聴いた時に私の中に生まれたのでした。
追いつけないスピードで走り去るワゴンの窓に
憧れもチャンスも載っていたような気がした
…
走らずにいられない 行方も知れず
…
なにも見えない夜の彼方からむせび泣く口笛が聴こえないか
忘れられない夢のカケラが数えきれない星くずを鏤める
夜を往け 夜を往け 夜を往け 夜を往け
この「夜」とは何かという問題です。
責任ある決定は理論的な知識や前提からの単なる帰結や結果であってはならないーそうでなければ、その決定はつねに唯一の特異な状況に応えるものではなく、規則やプログラムの適用になってしまうーのだから。それに先立つ法的、倫理的、政治的、理論的熟慮に対して断絶をもたらすものでなければならないし、したがって、有限な決定以外のものではありえない。それは「どんなに遅くやってくるものであっても構造的に有限」であり、「非知と非規則の夜のなかで」なされる以外にはないのである。
責任を果たすには、夜を往くしかない。すごいな、中島みゆき。
デリダってでりだ?
ここまで読んでくれたかたはおわかりのこととと思います。筒井先生の「デリダってでりだ?」の真の意味を。「デリダ」はシミュレーションとしてのデリダ。「でりだ」は現前のデリダ。「?」は差異の戯れのことだったのですね。
あらためて良い入門書は得られることが多いことを痛感しました。ということで、最新のデリダ入門書『ジャック・デリダー死後の生を与える』(宮﨑裕助 岩波書店 2020年)をポチりました。そのうちこれについても記事にしたいと思います。