長い文章を書きたい
子供の頃は、絵日記を書くとそれが何ページにもわたってしまうような貪欲さに溢れて生きており、とにかく何か記述し始めると止まらないところがあったのだが―あの衝動は何だったんでしょうねー、数えで41歳にもなれば、清濁併せ吞み過ぎて「これは書きたいが、いや書くと物議をかもすな」とか、「書きたいけど、書かなくてもいいや」とか、「もう疲れた。眠いけどゲームしよう」とか、怠惰になりがちである。そして、2021年も2月になってしまった。容赦なく時は過ぎゆき、ぼく(たち)は一歩一歩確実に年老いている。
長い文章を書くといっても、随筆や日記や連ツイのようなものではなく、何かの良し悪しを論じるようなそれなりのものを書きたいのだが、論文になってしまうと読むほうも大変だから、やはり批評になるのだろうか。なるのだろうか、などとあいまいなことを言わずに、「フッサールについてこういう記事を書きました」「カントについて次のようにまとめてみました」などとかっこよくTwitterにURLを投稿する人生を送ってみたかった。なんだか目標が低いようですけれどもね。キェルケゴール理解のためにとかシモーヌ・ヴェイユ理解のためにといった記事を書いたことがあるので、あの頃の快活さと自由な時間を取り戻したいのですけど、なかなか難しい。
昨年の11月の終わりから禁煙をはじめ、いまも続いているのだが、ぼくの読書習慣は長い間喫煙とセットだったので、読書についても進め方を試行錯誤しているところで、以前のように長時間読むことが難しい状況にある。どうしても集中力が切れてしまって、目が泳いでいるのは加齢、疲労、禁煙のストレスなどそういったものが手に手を取り合って攻めてくるからである。まだ41なのにそんなことを言っているようではあまりに弱気で先が思いやられる。中山元訳のカント『純粋理性批判』(光文社古典新訳文庫)も全冊購入したというのに読まずに死ぬつもりなのか。といって、無理もできないのが実際のところ。
そんななか、最近読み始めた東浩紀さんの『観光客の哲学』(ゲンロン)はとてもリーダブルで、この先どんな風に議論が込み入っていくのか楽しみである。しかし、現実世界が込み入っているのはあまり喜ばしいことではなく、忍耐を余儀なくされる局面が多いのに、なぜ書物に書かれていることは込み入っていても(辛い時もあるけれど)読んでいて楽しく感じるのか、奇妙な気持ちになる。おそらくその理由の一つは、書物は現実世界を反映しているけれども、現実世界そのものではないということにあるのだろう。これについて考察を深めていくと、さしあたりあと2-3時間は書き続けることになってしまうので、おとなしく休みますね。では、また明日(!)。
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