『「介護時間」の光景』(183)。「記憶」「言葉」「天国」。11.30。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年11月30日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年11月30日」のことです。終盤に、今日「2023年11月30日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2001年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2001年11月30日
『夢を見た。
母がぼんやりしている。
胸元に、ペンダントのように洗濯バサミをつけている。
そのまま病院で、作業をしている。
少しニコニコしている。
病室へ戻ってから、話す。
「何やっていたの?」
「何か、俳句とかいうの---- 」
「え?」
「初めてだったけど、何か、面白かったのよ。これからもやりたいわ」と笑っている。
俳句は、母が独身時代からずっと取り組んでいることで、病院に入院するまで、ずっと俳句の同人会に入って、何十年も俳句を詠んできていた。
「そう、よかったね」。私は、そう言いながら、涙が出てきている。
急に場面が変わって、母と二人でエスカレーターに乗っている。向かいのエスカレーターに乗っているのが、この病院の婦長さんだった。
気がついていない。
エスカレーターの上で、母を抱きしめて、涙が止まらなくなった。
そこで、目が覚めた。
夢の中ではあんなに泣いていたのに、実際には、涙は出ていなかったけれど、体が硬直していた。
今日も、午後4時30分頃、病院に着く。
母は横になっている。
話をしたら、誰かが退院したのを知る。
それで、この病院で、母とも友達のようになっていた人が泣いていたそうだ。
夕食までに母はトイレに3回行った。
食事は30分で、終わると、すぐにトイレはまた行った。
病室の小さな机の上にノートを置いてある。
そこに、いろいろと母は書き込んでいた。
長月。神奈月。そんな言葉が並んでいるのに、その下には、10、9と書いてあって、微妙に違っていたが、病室にもある「歳時記で確かめた」といっていたが、少しズレたようだ。
午後6時40分にまたトイレへ行く。
机に置いてある小さな時計が電池切れで完全に止まってしまった。今度は電池も買ってこよう。そのあと10分で、またトイレへ行く。母が、トイレを気にしすぎる傾向が、また強くなってきたのだろうか。
午後7時10分に病院を出る』。
記憶
母の状態が安定しているので、わりと決まった時間に病院から出られる。
バスの窓から空を見ると、満月に少し雲がかかっている。バスが走り出しても、今日はいつもよりも、もっと空の中で月が止まって見える。
これから本格的に寒くなっていくはずで、去年も、そういう変化の中で、同じようにここに通っていたはずなのに、思い出そうとしても、その寒くなっていった感じも、寒かった記憶も、本当に憶えていない。これだけ、すっぽりと記憶に残っていないような感触は、初めてかもしれない。
言葉
電車の中からどんどん流れていく外の景色を見ていると、夜はホントに暗いんだ、と思うほど、ところどころ本当に黒くなっている。暗さが嫌でもしみ込むように見える。でも、街が近づいてくると、やっぱり露骨なくらい明るくなってきて、大きい駅が近づいてくると高いビルも目に見えて多くなってくる。いつも見ているはずなのに、なんだか、その変化が今日はドラマチックに見えてしまう。
そのビルの壁の一つに大きなたれ幕。そして、大きな文字。
「相談と予約」。
その言葉がはっきりと見え、それは映画か小説か何かの題名かと思った。電車がさらに近づくと、その言葉の上に結婚式場の名前。そして、その言葉の下には電話番号。
天国
大きい駅を出て、さらに電車は走る。並行して走る路線の駅のホームをとばしていく。
自分が乗っている電車は止まらない二つの駅の間、いわゆるラブホテルが線路のそばにあるのが、けっこうよく見える。名前が「HOTEL HEAVEN」なのを、今日はハッキリと確認できた。
(2001年11月30日)
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2023年11月30日
天気がいい。
洗濯をして、洗濯を干して、軽く昼食を食べてから出かける。
電車に乗って、駅で降りる。
空は青い。
すでに秋晴れというよりも、冬晴れだった。
空気は冷たい。
今日は、仕事だった。
今から22年前の2001年の頃は、自分が、心理的支援の仕事をするとは、全く思っていなかった。
今もまだ足りないところはたくさんあるけれど、努力を続けて、少しでも誰かの力になれるような心理士(師)を目指したい。
それが思ったよりも難しいことだと、臨床心理士の資格をとってから10年目を迎えて、改めて感じている。
(他にも、介護に関することを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
#介護相談 #臨床心理士
#公認心理師 #家族介護者への心理的支援 #介護
#心理学 #私の仕事
#家族介護者 #臨床心理学 #介護者相談
#介護負担感の軽減 #介護負担の軽減
#自己紹介 #介護の言葉 #介護相談
#家族介護者支援
#家族介護者の心理 #介護時間の光景
#通い介護 #私の仕事
この記事が参加している募集
この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。 よろしくお願いいたします。