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『「介護時間」の光景』(81)「雲」。11.1.

 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

 

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。個人的な経験にすぎず、細切れの記録になってしまいますが、それでも家族介護の理解の一助になれば、と考えています。


 今回も昔の話で、申し訳ないのですが、前半は、2004年11月1日の話です。(後半に、2021年11月1日のことを書いています)。

「通い介護」

 母親に介護が必要になり、介護中にいろいろとあって、自分自身も心房細動の発作になりました。医師に、「過労死一歩手前です。もう少し無理すると死にますよ」と言われたこともあって、母に病院に入ってもらうことにしました。自分が病気にならなかったら、ずっと家でみようとしたのかもしれません。

 それが2000年のことでした。妻の母親(義母)にも、介護が必要になってきましたが、私は、母親のいる病院に毎日のように通っていました。そして、仕事をすることを諦めました。転院してからも、母親の状態は波があり、何の前触れもなく、ひどくなり、しばらくすると理由もわからずに、普通に話ができるようになったりしました。

 医学的には、自分が病院に通っても、プラスかどうかわかりません。だけど、そのことをやめて、もしも二度とコミュニケーションがとれなくなったら、と思うと、怖さもあって、ただ通い続けていました。これは、お見舞いといったことではなく、介護の一種であり、「通い介護」と名づけてもいい行為だと思うようになったのは、それから何年かたってからでした。

2004年の頃

 自分でいくつか回って、母に合っていると思って選んで、やっと空きが出たとはいっても、それ以前の病院で、いろいろと追い込まれたこともあり、2000年から転院した病院にも、白衣に怖さも感じるような状態で、すぐには信頼できませんでした。

 毎日のように通って、2年が経つ頃、母親に丁寧に接してくれていることがわかり、少しずつ信用するようになり、それから、さらに2年が経つ2004年の頃は、かなり信頼感が増していました。

 同時に、母の状態も安定していて、病院に通う頻度を少し減らしても、大丈夫なように思えていました。少し先のことが考えられそうな気がしていたのですが、2004年10月に急に母の体調が悪化し、近くの病院に転院しました。

 肝臓のガンでした。せっかく明るさが見えてきたのに、こんなことがあるんだと思いました。

 転院した、違う病院には馴染めず、ずっと元にいた「病院に戻りたい」と繰り返す母親に、どうしたらいいか分かりませんでした。

 それでも、手術はうまく行った、とその病院の医師に言われました。肝臓の患部に抗がん剤を入れることができたようです。ちょっと安心はしましたが、それが10月が終わる頃で、それから数日経った時のことです。

 その時の記録です。また、不安が増大したような日々でした。

2004年11月1日

『午後4時ごろ、病院に着く。
 母はしばらく眠っていて、気がつくと、「今日は口が苦かった」という。

 看護師に言ったら、大丈夫と言われたそうだ。

 それでも、そんな不安になる言葉の一方、今日は、風呂に入れて、それはよかったと思う。

 そして、少したったら、また母は寝ていた』。


 いつもと違う病室の窓から見る景色は、いつもの病院と距離も近いから、それほど違いはないはずなのに、それも、空だけが見えるのに、なにかが大きく違う、と思ってしまう。

 夕暮れのだいだい色で、空が薄くそまっている。
 入道雲になりそこなったような雲の固まりも、同じ色にそまっていた。

                    (2004年11月1日)



母は、それから、しばらくずっと寝ていて、待っていて、目を開けると、「気持ち悪い」と言い、吐いてもいいようなものを用意して、やや緊張していたら、少したったら、「治ってきた」という。

 今日は衰弱している感じがする。

 夕食になっても、部屋で食べる。気持ち悪いと言い、しかめっつらの無表情で、麻婆豆腐は、豆腐だけを食べて、「くどい。吐くからいらない」と言うのを見ていると、なんだか、嫌になる。

 母の食べ方を見ていると、一回あたり、少ないので、無限に続く「三角食べ」をしているように見えて、やっぱり嫌になる。

 夕食は40分くらいかかる。

 食べられないものが多くなっているので、おかずをなんとかしないといけないんだろうか、と思う。

 食べ終わり、トイレに行ったあと、母親が「あー、よかった、ありがとう」を連発する。
 何についての、よかったなのか、ありがとうなのかが、よく分からない。機嫌がいい感じなので、それはよかったと思い、それならば、来た方がいいのだろうか、と思った。

 午後7時少し前に病院を出る。

 自宅に電話をしたら、妻の声の向こうで、義母がセキをしているのが聞こえてきて、なんだか、ぐったりとする』。



 この生活が続いて、2007年に、母親は病院で亡くなった。その後、義母の介護は続いたが、2018年に、103歳で急に亡くなり19年間の介護生活も、突然終わった介護後の生活が3年経とうとしていて、何もできていない焦りが強くなってきている。

2021年11月1日

 昨日は、選挙だった。
 いろいろと変わるかもしれない、といった見方もあったが、ほぼ何も変わらないような結果になった。


洗濯

 妻に聞いたら、夜には雨が降るらしいが、それまでは、洗濯ができそうだった。
 それに、洗濯物が少なめなので、洗うものを尋ねたら、セーターを洗ってほしい、と言われ、久しぶりに、ドライ機能を使って、何枚もセーターやカーディガンなどを洗って、干した。

 これから寒くなるから、冬支度のような気持ちになる。

情報への焦り

 メーリングリストなどで、いろいろな情報が届く。
 求人情報や、活躍している心理士の方々の話も知る。

 それは、喜ばしいことなのに、自分自身は、何もしてない気持ちが強く、うらやましさや焦りが、ふと強くなる瞬間がある。

 それも情けないのだけど、これまで、組織に所属していない時間が長かった。いつもその場で一生懸命ベストを尽くしているつもりなのだけど、そこから紹介されて、仕事が広がっていくことは、あまりなく、どうすれば、仕事が豊富にある人になれるのだろうと、ずっと思っていた。そのことを、微妙な無力感と共に思う。

 ため息が出て、妻に心配される。

読書

 今日は、妻の調子がそれほど良くないようで、微妙に疲れた表情なので、できるだけ、ゆっくりすることを、すすめる。
 そのこともあり、私がいろいろと作業をしている隣で、読書をしている。

 妻は、穏やかな明るさを持つ人なので、そばにいてくれると、さっきまでの、焦りや無力感が微妙に薄れているのを感じるから、なんだか、ありがたい思いにもなれる。

 最初は、この本を読んでいた。
 ちょっと難しい顔をしている。


 しばらくたったら、今度はこの本を読んでいる。

 だんだん、妻が、微妙に険しい表情になってきた。
 その理由を、読書が一段落した時に聞いたら、登場人物で、とても嫌な人がいるらしい。

 そこまで集中して読んでいたら、著者もうれしいのかもしれない、と勝手に思う。

夕方の河川敷

 妻が少し仮眠をしている時に、あんまり家にいてばかりでは、気持ちが沈むのではないか、と思い、午後5時前に、そっと出かける。

 道路には、小学生らしき男の子も、佇んでいる女の子もいる。

 自転車を持って、立ち話を続ける女性がいる。

 高校のそばを通ったら、ブラスバンドの個別練習のような音が聞こえてくる。

 さらに歩く。

 空には、電信柱に止まるカラスの声が響いて、さらにあちこちで鳴いているカラスがいる。
 飛び立つ瞬間には、鋭く、空気を切る音が聞こえる。

 河川敷の道路には、今日も、走っている女性も、体を動かしている男性もいる。

 川のそばのグランドでは、野球と、サッカーの練習をしている。

 自分が、相変わらず外出を控えていても、当たり前だけど、社会は動き続けている。

 ずっと曇りだから、空は暗い灰色と、微妙に重い青い色になって、日が暮れようとしている。




(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。





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