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『「介護時間」の光景』(84)「落葉」「看板」。11.23.

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


 いつも、このnoteを読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして記事を、書き続けることができています。

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 個人的な経験にすぎず、細切れの記録になってしまいますが、それでも家族介護の理解の一助になれば、と考えています。

 今回も昔の話で、申し訳ないのですが、前半は、20年前の2001年11月23日の話です。(後半に、2021年11月23日のことを書いています)。

 前回の『「介護時間」の光景』から、4日後のことになります。


 1999年から母親の介護を始めて、私自身も心臓発作を起こしたこともあり、仕事をやめ、義母の介護も始まりつつあり、母親に入院してもらいました。その転院から1年がたった頃です。

(いつも「介護時間の光景」を読んでくださっている方は、「2001年11月23日」から読んでいただければ、繰り返しが避けられるかと思います)。

2001年の頃

 2001年当時は、毎日のように2時間ほどかけて、母の病室へ通っていました。帰ってきてから義母の介護をする毎日でした。ただ、それだけを続けていました。

 自分が、母の病院に通っても、医学的にプラスかどうかは分かりませんでした。でも、通わなくなって、二度とコミュニケーションが取れなくなったままになったら、と思うと、怖さもあって、通い続けていたのが2001年の頃でした。

 2000年の入院当初は、それ以前の病院の医療関係者にかなりの負担をかけられていたこともあり、やや大げさに言えば、白衣に、怖さすら感じていました。

 そういう気持ちは、1年経った頃も、それほど変わらず、まだ、うつむき加減で、母のいる病院に通い続けていました。周囲は、あまり見えていませんでした。

 それでも、毎日のように記録をつけていました。

2001年11月23日

落葉

 庭にある渋柿の木。年々、見かけだけは、なんとなく甘そうな柿に近づいているのに、やっぱりシブい。葉っぱは、もう落ち始めている。

 ばさばさ。そして、ぼとぼと。

 そんなような音を立てて、なんのちゅうちょもなく、地面までの最短距離を、葉っぱが落ちてくる。

 ぼとぼと。ぼとぼとぼとぼとぼとぼと。なんだか、落ちる速度がどんどん上がっているように思える。柿の葉って、けっこうでかいし。

2001年11月23日の記録

『昨日はバイクがうるさかった。
 午前6時までうるさくて、よく眠れない。

 午後4時ごろ、病院に着く。
 病棟に入ったら、患者さんが、みんなで「男はつらいよ」を、見ているようだった。
 先に、病室で待っていると、その途中で部屋に来る。

 「クッションがない…」
 なんだか母はぼんやりしている。

 一緒に、さっきのみんなでテレビを見ているところに行ったら、自分の座っているそばに、クッションがあって、それを渡す。

 さらに時間がたち、テレビで見ていた映画も終わって、戻ってくる。

 「寅さん、亡くなったんだって…」。
 主演の渥美清のことなのだけど、もう5年も前の話で、父親が亡くなった日と近いから、よく覚えていたはずだったのに、忘れているようだった。

 「寅次郎、って本名なのかしら…」。
 劇中では、たぶん、本名なのだと思うけど、どう言っていいか分からず、あいまいなことを言ってしまったが、ぼんやりしている度合いが増してきているような気がする。

 そして、映画の話にしようとして、「男はつらいよ」に毎回、女優さんが「マドンナ役」として出るので、誰か?という話題に移す。

 「マドンナ役?
  誰かわからない。

  八千草薫?
  どんな顔か分からない」

  そんな話になってしまった。

 午後4時30分に、またトイレへ。
 午後5時20分に、トイレへ。

 このところ、坐薬を処方されていたはずなので、その話をすると、「入れてるか、分からない。2週間くらい?」と、状況が分からない。

 そこへ看護師さんがきて、「どうですか?」と聞かれて、返答が要領が得なかったせいか、「じゃあ、いったん中止しましょう」ということになっていた。

 大丈夫だろうか。

 それから、母は、スタッフをみて、「あの人、〇〇みたいに、ムチムチってなっているのよ」と笑い始める。

 今、太っている弟のことを思い出したようだったけれど、笑っているのは、よく分からなかった。

 夕食は、35分で終わる。
 すぐにトイレへ行き、その後、午後6時40分に、またトイレへ行く。

 今日の日付は、母は分からなかった。

 4階の患者さんの一人は、部屋を移って、ベッドに横になり、チューブを鼻に入れているのが見えた。体調は悪くなってしまったようだ。

 午後7時に病院を出る』。


看板

 夜の駅。

 線路の向こうに何もポスターをはっていない看板の台(?)。白い板。

 そこに電線とそれを支える鉄塔の黒い影が映っている。その黒さに微妙な濃淡までついている。

 白い板になっているせいで、いつもよりもそれがハッキリと分かる。

                   (2001年11月23日)


 こうした生活は、2007年に母が病院で亡くなるまで続いた。その後は、妻と一緒に義母を介護する生活が続いた。その時間の中で、介護者への個別で心理的な支援が必要だと思い、分不相応なのは分かっていても、自分も専門家になろうとし、臨床心理学の勉強を始め、大学院に入学し、修了し、2014年には臨床心理士の資格を取得した。

 同じ年に、介護者相談の仕事も始めることができた。2018年には、義母が103歳で亡くなり、19年間の介護生活も突然終わった。2019年には、公認心理師の資格も取得できた。


2021年11月23日

 先週末には、人に会いに出かけられたし、来客を迎えることもできた。

 それは、コロナ感染の状況が落ち着いているからで、さらには、そのうち「第6波」が来るかもしれないという不安と焦りとともに、今しか会えないという気持ちがあったのだけど、まずは、本当に久しぶりに人に会えて、うれしかったし、ホッとした。

紅葉

 最近、妻に呼ばれたことがあった。

 2階から、柿の紅葉がきれいに見える。

 窓から見たら、思った以上に、柿の木の全体が赤くなっていた。
 柿の葉の紅葉は、黄色と赤が混じることが多いので、これだけ均一性が高く、赤くなっているのは珍しかった。

 昨日は、冷たい雨がずっと降っていて、空も暗かったけれど、今日は、晴れて、気持ちがいい。空気は完全に冷たくなりつつあり、季節が進んでいる感じはする。

「届く支援」について

 午後から、「DV」に関する市民講座に、オンラインで参加した。

 例えば書籍を読んでも、支援の届かなさを、考える。それは、支援側が、もう少しできることがあったのではないか、というような思いになることもあるけれど、それは、その場にいない人間の傲慢さなのだろうか、といったことも同時に考える。

 自分も支援の側にいる一人として、どうすれば少しでも届くのか、と思い、届かない場合には、そのスキルや方法の前に、どこかで、「上から」の気持ちになっていないだろうか、と反省する。

 それは、例えば、同じような仕事をしている人が、冷静ではなく、冷たい対応をしているように見えた場合、自分のことも振り返りながら、支援する人間の「気持ちの姿勢」が、とても大事なのだろうけど、それは学べるものなのだろうか。それこそ、素質と言っていいものではないか、といった思いは回る。

夕方

 晴れたから、今日は洗濯を3回した。
 最後の洗濯を干す時は、夜干しはいけない、と言われたこともあったけれど、明日も晴れるらしいので、夕方になっていたけれど、洗って、干した。

 午後5時前に、すでに暗くなってくると、だんだん冬が近づいている感じがする。



(他にも介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。



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