介護books⑥ 「介護」を、もっと広く深く考えたい方に、手に取って欲しい6冊
臨床心理士/公認心理師の越智誠と申します。
元・家族介護者でもありますが、介護を始めてから、「家族介護者の心理的な支援」の必要性を強く感じ、臨床心理士を目指し、今は、家族介護者に対して「介護相談」の仕事もしています。
(私自身の経歴の詳細は「介護離職して、介護をしながら、臨床心理士になった理由」を読んでいただければ、幸いです)。
今回は、家族介護者の当事者の方だけでなく、専門家の方でも、「介護というものを、もう少し広く、できたら深く考えたい」と思われる方に、私にそんな資格があるかどうかわかりませんが、6冊をお勧めしたいと思います。
いろいろなタイプの本を紹介しています。もし、よろしければ、ご自分のご興味がありそうな本を手に取っていただければ、と思います。(なお、紹介の文の順番や長短は、重要度などとは関係がありません)
『なぜ人と人は支え合うのか 「障害」から考える』 渡辺一史
映画にもなったのですが、「こんな夜更けにバナナかよ」の著者でもあります。
最初は、専門家ではなく、外部のライターの視点での本です。「こんな夜更にバナナかよ」は、ドキュメントとして、取材対象者である障害者と、本当に強い関係を結び、そして、専門家でないから、余計に、いろいろと揺らぎ、そのことで、より現在の障害者支援のシステムの問題点などを照らすような部分もあった本だと思います。
その「…バナナかよ」出版は、は、2003年ですから、それから15年後に出されたのが、この本です。
外部だからこそ、の視点が、この著書でも、十分に生かされているように思いますし、それに加えて、それまでの取材や経験や、著者自身の加齢といったことも含めて、この「なぜ人と人は支え合うのか」は書かれています。あとがきによれば、この本の執筆に5年をかけたようなので、もちろん時間をかければいいというものではありませんが、読後の印象は、丁寧に考えている、という印象でした。
この本のテーマは「障害から考える」ですから、主に「障害者支援」の視点から書かれているといっていいのですが、この執筆期間中には、相模原の施設で起きた大量殺人事件(2016年)が起こっているので、そのことについても、書かれています。その容疑者について、「もし、自分だったら」という発想自体がないのでは、といった考察のあと、そうした「もし、自分だったら」については、さらに、考え続けることによって、こうした指摘もしています。それは、この言葉が、だれかを追い込むかもしれない、どこか暴力的な部分があるのでは、という可能性を提示しているようです。そして、これは、とても重要な指摘に思えました。
「もし自分だったら」という言葉を用いて、いとも簡単に物事を判断し、結論を下してしまえる人たちもいることです。
たとえば、次のようなことも本当によく口にされたり、書かれたりします。
「自分なら、延命治療をしてまで生きていたくない」
「もし認知症になって人に迷惑をかけるくらいなら、自分は絶対に死を選ぶ」
「もし事故で半身不随になったら、自分は安楽死を希望する」
また一方で、改めて、「障害者福祉」の歴史は長く、そして、全部ではないでしょうけれど、「障害者福祉」があってこそ、「高齢者福祉」もあるといったことに気づかされるのは、こうした具体的な話です。
駅にエレベーターがついたのは〝自然の流れ〟でそうなったわけでも、鉄道会社や行政の〝思いやり〟でできたわけでもありません。
30年以上にわたる障害者の絶えざる要求と運動によって、ようやく実現しました。
そして、もしも、これからの「介護」を考えていくであれば、何かしらの社会への働きかけが必要で、たとえば介護保険のシステムを、いい方向へ変えようとするのであれば、黙っていては無理だということを、改めて宣言されるような箇所もあります。
公的介護保障制度には、地方自治体によって大きな地域間の格差があります。なぜかというと、自治体の財政状況や、福祉に対する理解度によって大きく異なるのに加えて、その地域に住む障害者たちが、自ら声を上げて、行政と粘り強い交渉を行っている地域ほど制度が充実し、そうでない地域は遅れるという現実があるからです。
人と人とが支え合う原点にまで、思考が届いている部分もありますし、「介護」だけでなく「福祉」全般も含めて、これからの社会を考えたい、といった方には、できたら読んでいただきたいと思います。
「ケア学―越境するケアへ」 広井良典
最初は、「ケア」という言葉を敬遠してしまう気持ちもありました。それは、特に高齢者にとっては、「ケア」という言葉は発音しにくいし、なじみもないので、できたら避けたほうがいいのではないか、とも思っていたからです。
しかし、この「ケア学」は「越境するケアへ」という副題があるように、かなり広い視点を考えさせてくれます。実は、本来はもう少し広い意味を持っていた「介護」という言葉が「高齢者介護」と、ほぼ同じ意味になってしまったのは、比較的最近で、自分もそれに慣れてしまっていることにも気がつかせてくれました。
本来の「介護」というのは、人が人を世話するという関係自体であって、そのことを深く考えていく際には「ケア」という言葉を使ったほうが、有効な時もあるのかもしれません。ある意味では、現場の論理(もちろん正しい場合が圧倒的に多いのですが)から、少し離れ、俯瞰的な場所から考えるには、「ケア」という言葉が、適しているようにも思えました。
ケアという行為は、通常考えられているように、たとえば「私がその人をケアしている」といったことに尽きるのではなく、むしろ「私とその人が、互いにケアしながら、〈より深い何ものか〉にふれる」とでもいうような経験を含んでいるのではないか、ということである。ここで〈より深い何ものか〉とは、うまく表現できないが、生命とか、宇宙とか、たましいとか、人間を超えた存在といった意味である。このことは、たとえばターミナルケアの場面を考えると比較的想像しやすいと思われる
こうした部分は、大げさに響く可能性はありますが、家族の介護をされている方も、介護を仕事として取り組まれている方でも、時として感じられていることではないか、とも思います。「ケア」もしくは「介護」であっても、ただの大変さとか、その克服というだけでない不思議な豊かさ、といったような印象を、こうして研究者の立場として表現してくれていると、どこかありがたさみたいなものも感じました。
他にも、ケアを福祉と医療を分断させるのはなく、つなげて考えるようにしたり、心理学の分野が弱いと指摘していたり、ターミナルケアを考える際に、哲学としての死生観までの踏み込みをおこなったり、その事によって、ターミナルケアに対して、本質的な発想の転換をもたらそう、といった事まで書いてあります。
こうして、駆け足での紹介にもなってしまいましたが、「ケア」や「介護」の本質を深く考えていく必要性と同時に、これからの「介護」を考える時には、そこを包括したより広い視点も必要だということを、改めて、考えさせてくれました。月並みですが、どんなことにも深さと広さの両方が、必要だということだと思います。
「ケアの絆 自律神話を超えて」 マーサ・A・ファインマン
筆者は、フェミニズム法学者であり、大学の教授を務めています。
主張はかなり明快であり、人は誰かに依存しなければ生きていけない存在だから、誰かがケアをすることになる。そうであるならば、そのケアに関しては、個人ではなく、社会全体で担うべきではないか。
この本を読むことで、自律(自立)や依存に関して、改めて考える機会を持てる可能性は高いと思います。
依存状態とは、病的な避けるべきものでも、失敗の結果などであろうはずはなく、人類のあり方の自然なプロセスであり、本来、人の発達過程の一部である。(中略)私たちはみな子どものときは誰かに依存しており、年をとり、病いを得たり、障害を持てばまた依存的になる者がほとんどである。こうした避けがたく、逃げようのない依存のかたちは断じて責められないはずだ。歴史的には、こうした依存者は“支援を受けて当然の者 deserving poor”と呼ばれ、社会の正当な施しの対象と見られてきたのである。
こうした考えが、本当に社会で共有されたら、「介護」というものへの見方も支え方も大きく変わり、だけど、それは社会の構造そのものが変わる必要もあります。そうなれば本当にいいのに、といった願望にも似た気持ちにもなりましたが、それは、読む人によって、かなり違う印象になるかもしれません。
二次的な依存者は依存の仕事を果たす結果、金銭的・物質的資源が必要となる。その他に制度的な支援や対応、ケアの仕事をしやすくする構造的しくみも必要とする。依存者のケアは過酷な仕事である。犠牲的精神、利他的な精神の規範が求められるのは明らかで、それにはお金がかかる。(中略)二次的な依存はケアの担い手という地位から発生するが、私たちのうち全員がこの役を引き受けているわけではない。実際、社会にはケアの担い手になれば生じる負担とコストから完全に逃げおおせている人がたくさんいる。おそらく、他の人のケア労働のおかげでケア以外の仕事に携わることができているのだ。
「二次的な依存者」というのは、いわゆる「養育者」や「介護者」のことですが、こうしたことが、理論的にも実証できて、介護する人を、介護をしていない人が支える義務がある、などと言えるようになれば、それだけで、ずいぶんと気が楽になると思いました。
ケアの仕事は集団の、社会全体の債務であり、社会の各構成員の債務であると私は論じてきた。(中略)生物学的な依存が人類の条件として普遍的で避けられないことを論拠としている。
こうした本を読む人が増え、「介護者」を本当の意味で、社会が支え、それに対して、支えられることに、うしろめたさも持たないようになったら、それは、一種の夢物語にも思えますが、本当にありがたい、といった気持ちにはなれました。
『「共倒れ」社会を超えて 生の無条件の肯定へ』 野崎泰伸
著者は、社会福祉学の研究者という専門家でもあり、自分自身が障害者でもあり、私がどこまで理解できたかはわかりませんが、どちらの立場も有効に生かした結果としての著書のように思いました。そして、「介護」や「障害」を含めて、この社会がどうあるべきか、について書かれた本だと思います。
たしかにこの社会は動かし難い。しかし、そのことと、この社会がいかにあるべきかは、まったく別のことです。
そして、当事者性についても、とても明確な方向を示しているのですが、それは、おそらくは長く深く考えてきた上で、覚悟とともに発せられている言葉のように思います。それは、読む側にも、どこか開放感と、責任の重みの両方を感じさせます。私は、読んでいて、ここまでのことを考えられないことに気づき、自分の不自由さも感じました。
捨て置かれ、排除された当事者が告発しなかったとしても、他の誰かが代わりに告発することが可能です。しかし、それはまだ代理人としての告発の次元にとどまっています。ここからもう一歩進めて、「この私が、ある存在を捨て置くような社会は不正義だと考えるから告発する」ことによって、「代理として」言ってあげるという恩着せがましさから脱却できますし、なにより、「この私」が発言するわけですから、責任の所在が明確になります。
そして、その目指す社会も、完全に同意する気持ちにはなるのですが、やはり、覚悟と責任と困難さも、伴っている重みは伝わってきます。こうした引用箇所に、賛意を感じる方には、おすすめできる著書だと思います。
「生の無条件の肯定」とは、来るべき社会における正義の構想のことです。そこから織りなされる倫理をひとことで言えば、「他者と共に豊かに生きられる、犠牲なき社会を目指すあり方」となります。
「ケアをすることの意味 病む人とともに在ることの心理学と医療人類学」 アーサー・クラインマン
著者の肩書きは、ハーバード大学の教授であり、「医療人類学の世界的権威」とあるので、かなり権威的な響きがあるような気がしますが、この本は、講演をもとにしているせいか、かなり読みやすい印象でした。
それに読んでいて感じるのは、これは個人的な感触に過ぎませんが、患者に対しての距離感が、誠実にも思えました。ケアに関してのベースは、自分自身の体験に基づくもののようでした。当事者としての経験が必ずしも、有効に働くわけではないのですが、著者の場合は、それが、そうした患者との誠実な距離感に、つながっているように思いました。
少し長いのですが、著者自身の言葉のほうが、より伝わりやすいと感じましたので、引用します。
ケアをすることは容易ではない。時間やエネルギー、財源を費やし、体力や決断力を奪い去る。それはまた、ケアをすることで効果があるとか希望が持てるといったごく素朴な思いに大きな疑問符をいくつも付すのだ。ケアをすることは苦痛や絶望を募らせ、自己を引き裂く。家族にも葛藤をもたらし、ケアのできない者やしない者とケアをする者との間に溝を作ってしまう。ケアはきわめて困難な実践なのである。専門である医学や看護の諸モデルが提案するよりもはるかに複雑かつ不確かであり、専門領域に限定されない実践なのである。というのも、わたしにとっては、ケアをすることの道徳的・人間的な中核は決して精神科医であり医療人類学者である自身の専門家としての仕事から得られたものではないし、主として研究論文や自分の研究から得られたものでもないからである。わたしにとってのケアをすることの道徳的・人間的な中核は、何よりもまずジョージ・クラインマンのケアをする第一の存在として始まった。自分自身の新たな暮らしから得られたのである。
ジョージ・クラインマンは家族であり、家族に介護が必要になったので、みおくるまでケアをしてきた、ということのようです。そうした経験と、それまでの学問的な知見によって、こうしたことまで言ってもらえるのは、勝手な感覚なのかもしれませんが、心強い気持ちにもなりました。引用した以下の言葉にも興味がもてれば、おそらく本を読まれても、得られるものも多いのでは、と思います。
最良の臨床家は、人として患者とそこに「在る」ことのできる人です。患者とともに在り、特別な存在であることを患者に感じてもらうことができる人を言うのです。最良の臨床家は、患者に、良くなってもらいたいと願いながらもそこにともに在るということができる人です。このことは、ケアをすることにおいて、途方もなく重要なことと言えます。
「障害者の傷、介助者の痛み」 渡邉琢
今回、紹介した本は、障害者支援の本が多めになったかもしれません。それは、私自身も、「高齢者介護」から「介護」のことに関わるようになったのですが、そうした視点から見ると「障害者支援」や「障害者介助」のことは、改めて新鮮でもあった、ということもあります。
この著者も、障害者の介助者でもあり、必然的に、介助される側との関わりだけでなく、社会のことへの関心へもつながっていきます。こうした視点が、「高齢者介護」の世界では、私自身の感触では、かなり少ないのではないかという印象があります。
このままでは、「高齢者介護」は、必要とされながらも、支える体制が縮小という方向は避けられないのではないか。個人的には、そんな、どこかあきらめるような思いを蓄積してきた20年でもあるのですが、こうした本を読むと、それでいいのだろうか、というような気持ちにもなります。
著者は、障害者介助、という仕事をし、目の前の介助の具体的な困難と向き合いつつ、同時に、そこから、ずっと考え続けて、思考を深めるという繊細な作業を続けているからこそ、だんだん射程が遠く、広く届くような、こうした言葉が発せられるのだとも思います。ただ、「高齢者介護」の現場でも、同質なことがあるのではないか、とも感じます。
介助者には、障害者側からの感情の爆発や暴力的言動があったとしても、自分の感情は平静を保たねばならない、ということが基本的に求められる。介助者も人間である以上、そうした激しいエネルギーを受けたときは、当然心身にダメージを受ける。それが「介助者の痛み」であるだろうが、おそらくその「痛み」が明示的に顧みられることは現状ではあまりない。
長い目で見るならば、障害者に深い傷を負わせているこの社会の差別的なあり方こそ、改善されていかないといけないはずだ。だから、障害者としても目の前にいる介助者に都合よく痛みを転化し、留飲を下げるだけでは、決して深い傷の要因が取り除かれることはないだろうし、また介助者としても、単にキレやすいめんどくさい障害者と見るだけでも問題は解決されないだろう。
先に「私らが介助者を虐待しているのかもしれない」という障害者自身の言葉を紹介したが、介助者も自身の加害者性を認識すると同時に、障害者からのその言葉を聞いてはじめて、「痛み」が和らいでいくような感覚を覚えるのかもしれない。
さらには、「高齢者介護」との関わりについて、その違和感も含めて、率直に表現もされています。外部からの視点でないと、わかりにくく、指摘もしにくい部分に思えますが、これからの「介護」を考えるのであれば、こうした視点を知ることは、有益ではないかと思いました。これからの「介護」について、言葉にしにくくても、違和感や不安をもたれている方には、こうした著書の、率直な言葉は、より受け入れやすいように思います。
まずわかりやすいところからいえば、介護保険は、障害者福祉に比べて、利用できるサービス量が圧倒的に少ない、という問題がある。
基本的な印象としては、介護保険というのは健常者の目線からできている制度で、家族介護前提、また施設や病院偏重であり、どうしたって重度の要介護状態の人が地域で自立して生きていくのを支えるという発想がない。
現在の高齢者介護の状況を打破するポイントは、「高齢者介護保障運動の可能性」いかんにあるのではないか。
今回は、以上です。
そして、この「介護books」シリーズも、今回でいったん終了します。
もし、さらに、必要な「介護books」に気がついたり、こうした「介護books」を紹介してほしい、といったリクエストがございましたら、場合によっては、再開するかもしれません。
(他にも介護について、いろいろと書いています↓。クリックして読んでいただければ、幸いです)。
介護に関するリクエスト①「気分転換をしようとしても、悪いことが起きるような気がします。どうしてでしょうか」
介護books④「家族介護者の気持ちが分からなくて、悩んでいる支援者へ(差し出がましいですが)おススメしたい6冊」
「介護相談」のボランティアをしています。次回は、2020年 7月22日(水)です。
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