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『「介護時間」の光景』(161)「つる」。6.20。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(※いつも、この「介護時間の光景」シリーズを読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年6月20日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年6月20日」のことです。終盤に、今日「2023年6月20日」のことを書いています。

(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2001年の頃

 個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。

 仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。

 だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。

 それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。

 ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。そのせいか、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。

 周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日のことを、かなりマメにメモをしていました。

2001年6月20日

『病院に着いたら、母は、「今日、カルタとりをやったのよ」と話し出し、その後に、なぜか、上野に行ったような話をするので、そんなはずもないので、少し聞いてみたら、「ここにいるから、いいのよ」と答えがかえってきた。

 今日も、病棟のレクリエーションのような場所で歌を唄ったらしい。

 「高校3年生も歌ったのよ」

 弟は、転勤をしているものの、今は、どこにいるのか、よく分からなくなっている。ただ、その記憶のあいまいさに関して、母親は気にしていないようだ。

 今日は、午後1時20分頃に病院に来て、午後6時過ぎに出たのだけど、私がいるのが3時間過ぎると、母は、かえって疲れてしまうかもしれない、などと思った。

 窓の外は晴れ間が見える。

 帰る時に、病棟の婦長さんに「何かあったら、遠慮しないで、言ってもらえたら」と言われたのだけど、ただ、母のことも含めて、はっきりと分からないことが多そうで、聞いても、逆に不安になるような気がした。

 ただ、個室は料金がとてもかかるので、もしかしたら、Aチームの病棟に行けるかも、グループの中の病室に移れるかも、といったことを聞いて、ちょっと希望が持てた。

 まだ、どうなるのか、分からないけれど』。

つる

 母の病室に、つるが並んでいた。

 いわゆる折り鶴が、20羽ほど、糸に通されて、ぶら下がっている。
昨日はなかったから、びっくりした。

 母は、自分が一人で、突然つくったように、とても自然に振る舞っていて、そのことに、勝手に希望と驚きを感じていたのだけど、時間が経って、病院のスタッフの人に、かなり協力してもらったことを知る。

 納得と、微妙にがっかりした気持ち。

                    (2001年6月20日)


 それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。

 だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2023年6月20日

 梅雨入りしたはずなのに、あまり雨が降っている印象がない。
 今日も、天気は悪くないので、洗濯を始める。

 私が汗かきで、寒がりなので、Tシャツをすぐ着替えるので洗濯物がどんどん増えて、気がついたら、洗濯かごがいっぱいになっている。

 洗濯ができるのは、ありがたい。

草花

 気がついたら、あちこちに小さめの花が咲いている。

 庭にも、色が増えている。
 
 そういえば、今は、どの花がいいのだろう。

 そういう粗い気持ちになってしまったのだけど、そのことを妻に聞いてみたら、今は、カワラナデシコかも、と言われた。

 何輪も咲いていた。

 他にも、いろいろな花が咲いていて、妻に教えてもらって、道路をはさんだマンションの空き地のような場所も、さまざまな草花があることを知った。

支払い

 この時期になると、固定資産税や、国民健康保険の料金の支払いをしなくてはいけない。

 今、住んでいるから、固定資産税は払うけれど、低所得者の私たちにとっては、あ、今年も、これだけのお金を払わなければならない、と気持ちがキュッとする。さらには、国民健康保険料金は、こんなに収入が少ないのに、という思いで、気持ちが暗くなる。

 だから、今日は図書館に行った帰りに、隣町の郵便局に寄って、お金を下ろしてくるつもりだった。地元の郵便局は、建て替えで、来月まで、まだ開いていない。

 本は10冊以上だったから、いつものように重い。図書館の最後の坂道を自転車で上り、本を返して、また借りる本もあり、予約して取り寄せてもらった本もある。

 そこから、郵便局まで自転車で向かうが、慣れていないせいか、一度は通り過ぎてしまった。そして、ATMで、自分にとっては大金をおろし、なんとなく緊張をして、周りを見て、やっぱり少しいつもよりも緊張をして、自転車に乗って家に戻った。

 途中で買い物もしたいけれど、お金を持っていると、妻も心配するので、いったん家に帰る。そこで、固定資産税や、健康保険料や、そのほかの公共料金も含めて、近くのコンビニに歩いて、支払いに行く。

 1回あたり、紙幣は10枚まで支払えるので、機械に吸い込まれるようにお金が入っていく。

 それを見て、こんなにお金を支払う不安な気持ちと、それでも、やっと払えた、という思いと、家に戻ったら、自分が、ちょっと安心していることに気がついた。

生活

 それから、再び、出かけて、買い物に行く。
 メモも見ながら、商品をカゴに入れて、支払って、また家に戻る。

 何もしていないのに、それだけの用事で、なんだか疲れる。

 今のところ、なんとか生活はできているけれど、これから先はわからない。

 あまり考えすぎると不安にはなる。

面接

 人と人との間でしか起こらないことは、やっぱりあって、心理士(師)としては、それを、面接の中でどう生かすか?が大事なのだろうと感じてきたことが、最近、読んだ本で、「科学的」に証明されてきた、というのを知った。

 年齢のこともあるし、自分が本当にできるかどうかは別として、そこを目指したいと思った。




(他にも、介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。






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越智誠  臨床心理士/公認心理師  『家族介護者支援note』
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