宮崎駿「君たちはどう生きるか」を観てセカンドキャリアを考える。
人生100年時代。
人類が初めて迎える状況で、人の生き方はどう変わるのか。
この言葉を広めたイギリスの組織論学者リンダ・グラットンは言います。これまでの人生は教育・仕事・引退の3パートで成り立っていた。100年時代では、教育・仕事の後にもう一つの人生があるのだと。
引退後の人生はおまけではありません。むしろラストステージこそが本番だというわけです。
ラストステージで何をすべきなのか。それは100年時代だからこそ登場した大問題です。
この問いへの大きなヒントとして宮崎駿の最新作「君たちはどう生きるか」を挙げてみました。
「風立ちぬ」以来、実に10年ぶりの宮崎アニメの新作。事前宣伝を一切しないという戦略とも相まって、世間の耳目を一身に集めました。
蓋を開けてみると、賛否両論。ワクワク感を期待した観客はがっかり。深みを味わいたいジブリファンにとっては見応えのある作品。という具合に意見が真っ二つに分かれる結果になったようです。
実際のところ難解です。少なくとも子供が楽しめる映画ではありません。前作の「風立ちぬ」から10年。その歳月をかけて宮崎駿は一体何をしようとしたのでしょうか。
監督はこれまで、2回も引退宣言をしています。千と千尋の後、そして風立ちぬの後です。
その意図は後進の育成にあったろうと思います。実のところジブリを引き継げる存在は現れていません。監督は82歳。後進の育成はジブリの生死に関わる大問題です。
しかし監督は独自の世界を作り出すタイプであり、人を育てるのは不得意です。自分の存在が邪魔をしている。引退すれば若い人たちが芽を出すはずだ。そんな目論見があったはずです。
「これをもって引退します」と見栄を切ってみたものの、いざ現実になると、それは耐えがたい日々だったのではないでしょうか。
監督が生涯の作品に込めたのは「生きる」という想いです。
生きることの素晴らしさを持てる想像力を振り絞り、苦悩を重ねながら描いてきました。その人が生きるヨスガを失って平気でいられるでしょうか。
心理学者のエリック・バーンは「人間は空白の時間に耐えられない」と言っています。空白の時間があると何か意味のあるもので埋めようとする。それが人間だ、という主張です。
アニメーションに全てを捧げてきた人間にとって創作活動以外に空白を埋めるものなど、どこにもなかったことでしょう。
それに気づいた宮崎駿は引退を撤回。次回作に取り掛かかります。その理由を本人は次の様に語っています。「作りたいものが見つかったからだよ」
監督は何を見つけたのでしょうか。
宮崎作品はどれも目も眩む圧倒的なクリエイティブ力に支えられています。その道程は地獄の様な苦しみの連続だったと本人の証言から伺えます。本当に得たいものは地獄の中にしかないことを監督は知っていました。
得たいものを得るために闘い続ける。地獄の様な闘いに必要な武器は鉄壁の様に硬いモチベーションです。
彼の作品歴をみると、自己模倣がありません。常に新しいことに挑戦していることが分かります。それはその時々で一番やりたいことを選択してきた結果でしょう。一番やりたいことだから鉄壁のモチベーションが持てるということです。
40歳の宮崎には「ナウシカ」が面白かった。60歳の彼には「千と千尋」が面白かった。
では80歳の彼にとって一番面白く、最高の意欲が持てるものは何か。次回作のテーマ探しはそういうことだったろうと思います。
これが遺作かもしれない。これまでの集大成にふさわしいものを何か。自分を偽らない本当に作りたいものは何なのか。とことんまで自分に正直になったとしたら何を作るのか。
それは自分自身をテーマとすることでした。幼少期に刻み込まれ、70歳を超えてなお、消えることのない「夢」そして「傷」。己の人生の核心にあるものを、持てる表現力の全てを出し切って描く。それがアニメーションの奴隷として生きた男の結論。
テーマ決定に至った経緯はそんなものであったのではないかと想像します。
でき上がった作品を私たちは鑑賞しています。評価は分かれていますが一度引退した人間が、セカンドキャリアとして何を築いたのか。この映画をその一つの事例として見ることはできると思います。
「君たちはどう生きるか」
私たちが今、最高に意欲を持つことができるもの。それを見つけることができているか。
宮崎駿からの魂の問いかけ。それに私たちは答えなければいけないのではないか。エンドロールを見ながらそんな想いを感じていました。