(21) 霧子 ー 小春日和
冬の晴れ間は、何故か得をしたような気がする。
徹夜の原稿書きから解放されるはずの十時を過ぎても仕上がらず、霧子は少し苛立っていた。カラリと晴れ上がっているから、尚更のことである。今年も暖冬だろうと長期予報が出ていたようだが、十一月の下旬頃から本格的な低温が続き、徹夜の仕事は身に応えた。だから、徹夜明けが今日のような小春日和だったりしたら、何か救われたような、得をしたかのような気がするのである。
霧子は、五年勤めた出版社を今春辞め、今はフリーのライターとして活躍している。活躍と言っても、本格的な読み物を掲載してもらう程ではなく、専ら雑誌の特集を手掛けているに過ぎなかった。今回の仕事に関しては、霧子にとって力の入る仕事であった。売り上げトップの女性月刊誌からの依頼であったことや、テーマが興味深くやりがいもあり、何よりもギャラが高かったからである。ちなみに今回の特集のテーマは、「青春の愛と性」であり、半年の連載であった。
「もうダメだ。腹が減っては戦は出来ん。外は珍しく小春日和だというのに部屋に閉じこもってチマチマとマス目を埋めていられるか、外出、外出」
霧子の悪い癖である。お腹が空くと極端に集中力と理性を失くし、パニックを起こす。小春日和とあって、霧子は軽装で外に出た。赤のセーターとジーンズは霧子のトレードマークであり、共にワンサイズ大きいものである。刈り上げた頭髪は霧子のお気に入りで、今時の少年のそれよりも短く、すっきりとして似合っていた。
「あっ、おばさん、おはよう」
「霧子ちゃん、もう十時を回ってるよ。おはようもないけどまた徹夜かい?大変だね」
「まぁね。あっ、そうそう、この間昆布巻きありがとう。とっても美味しかったわ」
「徹夜なんかして無理するんじゃないよ」
「うん、来週ね、富山へ取材に行くからおばさんだけに鱒寿司買ってくるからね」
「可愛いこと言ってくれるわね、この娘は」
マンションの隣に住む片桐さんである。霧子がここへ移ってからのつき合いで、どういう訳か片桐さんとは気が合った。エレベーターを降りると、霧子は上着を着て来なかったことを少し後悔した。小春日和とはいえ年の瀬、上着なしの外出は身に応えたのか、両手をジーンズのポケットに突っ込むと、足早に商店街の方へ急いだ。
食事を済ませ落ち着いた霧子は、富山への出張の為にと思い、下着と洗面用具を買い込んだ。たいした物を買ったわけでもないのに結構大きな包みになり、両手で胸に抱え霧子らしくもなくぼんやりと駅前商店街を見て回った。いつもになくゆっくり歩いてみると、不思議なことに、日頃気づかないものを発見したりするもので、いつも文具を買う店の隣に骨董品の店があることに気づいた。元々、いつもはシャッターが下りていることが多かったのは事実であったが。骨董品そのものがそうであるのか、この種の店は独特の雰囲気を持っているものである。この店も例に漏れず、どこか危ない自己主張を持った店に思えた。
主人自らが彫ったと思われる木彫りの看板には、「無為」とあった。霧子はふと、
「これはそのまんまだわ。一捻り欲しいところだなぁ」
と、独り言をつぶやき、店主はどんな人物だろうと興味を持ったらしく、恐る恐る入ってみたのだった。柱時計、家具、ランプ、和食器、石仏などが適当ではあるが整えられ置かれてあり、それぞれに値札などついてはいなかった。どういう訳か、由緒あるとも思えない便器までもが並べられていたのに驚いた霧子は、
「これ反則だわ」
と、つぶやいた。その声が聞こえたのか、奥から店主らしき男が声を掛けて来た。
「何かお探しですか?」
突然の声に驚き、しばらく身動きが取れなかった霧子は恐る恐る首を捻り、左肩越しに声の主を見た途端、
「あっ」
と、叫んだ。
「どうかなさいましたか?」
優しそうな声で店主は応えると、霧子に近寄った。
「普通の人なのでびっくりしたんです。ごめんなさい、変な声出して」
いかにも骨董として価値のありそうなテーブルに、これも由緒正しくて雰囲気のあるコーヒー茶碗で出されたコーヒーだったこともあり、霧子が嬉しくなるのも無理はなかった。こう言った骨董屋の主人と言えば、胡散臭い人物と相場は決まっているが、「無為」の主人は少し違っていた。物静かで品があり、どことなく研究者の持った空気を漂わせていた。眼鏡の奥からは優しい眼差しが注がれ、明眸とはこう言った目の事を言うのだと霧子は思った。霧子の予想は大きく外れてしまい、五藤尚一と名乗った店主は、S大の講師であり、専門はインド哲学だと言う。霧子は興味津々で店主の話に聞き入った。五藤によれば、骨董の魅力はその品の歴史が語る存在感だという事である。その点では人間も一緒なんだろうと霧子は理解した。
「骨董に興味をお持ちですか?」
五藤は煙草に火をつけながら尋ねた。
「はい、興味はあります。だけど、それ以上に関心があるのは、この店の屋号である”無為”と言いますか・・・」
煙草の火を消した五藤は、少し身を乗り出し、残りのコーヒーを飲み干すと静かに語り始めるのだった。
「私は以前、T大哲学科の教授をしておりました。研究も順調に進み論文もはかどりましたし、地位も名誉もありました。何の不自由もない生活をしておりました。文学部長になった頃から、私の中に何か違う感覚が生まれ、充実しない物足りなさが住みついたのです。専門は皆さん馴染みは薄いかも知れませんがインド哲学です。それもあり、年に一、二度インドへ行く機会がありました。私は正直申し上げると、専門でありながらインドという国を好きだと申し上げることが出来ません。しかし、私の為にも必要な国だと・・・。そう、ここから私も人々も出発しなければと強く思う国なのです。人は何かを所有すればするほど、自らの本来あるべき存在からかけ離れてしまうものだと痛感するのです。無一物であるべきだと思い、T大教授・文学部長を辞めようと思ったのです。同僚や友人たちは、涙まで流しながら慰留してくれましたが、決意は固かったのです。今はパートタイムのような形で何の肩書もなくS大学へ週一日行きます。私は”無一物””無為”であり続けたいのです。長くお話しし過ぎました・・・。お疲れでしょう?ごめんなさい」
霧子は身動きが出来なかった。それは本物に出会えた結果であろうと、霧子には思われた。帰り道、「”無一物””無為”が本業である」と、言った五藤の凄さを味わった。
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