無理することが美しいと思わなくなった話
県外に引っ越すことが決まったので、最近断捨離に勤しんでいる。今日は今後着ないであろう服や鞄の一部を買い取り店に持っていくことにした(あまり高いブランドでない服は基本、寄付に出す)。断捨離する服選びをするとき、基本的には「ときめかなくなったか」を一番の判断材料にするのだが、今回はそれに加えてもう一つ、判断材料を加えた:服自体は可愛くても、着るときに体がどこか無理をしていないかだ。分かりやすい例だと、サイズアウトした服。頑張ればチャックは閉まるけど、体に合っていない服は体のどこかしらが無理をしていることになる。他にも、私は基本的に肘から下に衣類があることを嫌うのだが、手首あたりでボタンを留める必要がある服や、まくり上げた時に落ちてきてしまう服、着た時の肌触りがあまり好きではない服、などだ。
今までは、”beauty is pain”という言葉を信じていたので、多少自分の着心地が悪かったり、きつかったとしてもかわいらしく見えるなら我慢しようと思って服を着続けることがよくあった。ヒールの高い靴もいくつも持っていて、数時間歩くとつま先が腫れて歩くたびに激痛が走っても、見た目が可愛いからと履き続ける靴もたくさんあった。効果があるかは分からないけどみんな使ってるし、きっと役に立っているのだろうと思って色々な化粧品をつけていた。それが世の女性にとっては「当たり前」なのだと勝手に思っていた。でも、その頃の私はもうすっかり過去だ。
今では、着ていて自分が自然体でいられる服しか着ない。少しでも自分の今の体型(産後の、ぶよぶよお腹の体型)に無理をさせる服は一切着なくなった。今まで無理して履いていたスキニージーンズもやめ、自分のお腹や太ももが締め付けられないワイドパンツやスウェット、ワンピースやゴムスカートしか履かなくなった。靴も、子供が生まれてからヒールは冠婚葬祭のもの以外はすべて捨てた。外出する際はほぼ一年中、同じスニーカー風のローファーを履いている。一年間履いて、かかとがすり減ってきたらまた同じものを年末に買う。化粧品も、自分が不要と思った工程はすべて排除することに決めた。アイラインは一年ほど前に買うのを辞めたし、アイシャドウも今使っているものが終わったらもう買い足さないつもりだ。人によっては、「なんて怠惰な!」と思うかもしれないけれど、私はこれでいいと思っている。
今の世の中は、スマホ一つで世界と繋がることができるようになって便利になった反面、情報過多になりストレスを抱え込みやすくなったのではないかと思う。周りが見えてしまうからこそ、今までは「これでいい」と自分なりに腹の落としどころがあったものも、「他の人たちはこうしているのか」と、知らなくてもいい情報に左右されて自分の軸がぶれやすくなったのではないか(もちろん、どんな情報にも踊らされず自分を貫ける人もいるとは思うが、少なくとも私は情報に踊らされている面があった)。でも、ずっと左右され続けているといかんせん疲れる。私はもう、人の目をあまり気にせずに、とにかく自分自身に無理がかからないように生きていくことを決めたのだ。
というのも、無理をすることが美しいのではなく、自分のすべてを受け入れ、自然体でいることのほうがよっぽど人間的に美しいと思うようになったからだ。これは私にとっては大きな変化だと思う。この変化は、私一人だけではきっと起こることはなく、息子によるところが大きいように思う。というのも、まだ保育園が決まらないので、愛する息子に朝から晩まで振り回され続けているのだが、そのおかげで息子に振り回される以外には自分にこれ以上無理をさせたくないという気持ちが芽生えたのだ。洗練された服を着て、メイクがばっちり決まっていても心が壊れかけている自分と、泥だらけで、モデル体型とはかけ離れていて、顔も汗だくだとしてもとびっきりの笑顔でいられる自分とだったら、後者の私のほうがきっと美しいと思うようになったのだ。そういう意味では、新しい変化へと私を導いてくれた息子に感謝している。
まだ、十分だとは思っていないが、少しずつ、自分が「無理して」持っていたもの(物質としてのモノも、気苦労するだけの人間関係も、頭の中の固定観念も)を手放す努力をしている。これから引っ越し準備や保育園問題、新しい地での仕事復帰と育児両立と、更にあわただしい日が待ち構えている予定なので、どんどん環境に振り回されて、私の今までの人生で蓄積されてきた「無理」がそぎ落とされるのではないかとある意味わくわくが止まらない。もっと脱皮して、もっと自由になって、心も体も身軽に、自分の本質だけ大事にしながら生きていけたらこれ以上愉快なことはないのではないか。今後が楽しみだ。