「何事にも理由があるを」結論にしない
物事には因果がある。それはつまり、ある出発点がある終着点へと向かった結果を、私達は目にするということである。だから出発点は大抵、見えないものだ。目の前にあるのは終着点ばかりだから、私達はそれを現実として受け入れているためである。
このような終着点ばかりでつくられた世界と関わるうちに、私達が失うものはもちろん、出発点への意識だ。時として私達は、終着点を見続けるあまりに、それがどこから来たのかをまるでなかったかのように扱い始める。そしてその意識もとでこう言う。
「起こってしまったことは仕方がない」「やる前に言ってよ」「終わったことはもういいでしょう」
これらはすべて、もう一生涯、物事に責任を取らないと決めた愚か者のいいわけである。場合によっては、誰かを励ましたり、やる気を出したりするためのポジティブな使われ方もある。しかしそれは少数で、これらの言葉は多くの場合に、単に結果だけを見続け、その過去を、原因を、理由を蔑ろにする、理性的な人間とは思えないような言動なのである。
なぜ、そうなったのか。どうしてこうしたのか、何がそうさせたのか。そういった原因は必ず結果とセットである。どんなに複雑でも、それらが繋がりを断つことも、消えることも、無視していいものでもない。そしてもし、この「何事にも理由がある」ということをはじめの一歩としてではなく、結論として終わらせてしまうようなことがあれば、それはもれなく愚か者のいいわけとなる。
理由があるのならば、それを知ろうとしなければならないのだ。理由があるという結論を下して、だから口出しは無用だとか、仕方がないとか、考える必要がないとか言うのは理性的ではない。
ということはつまり、間違っても「理由がある」という結論を下してはいけないのだ。そこで止まってはならないわけである。むしろそこからはじめねばならない。目の前の「結論」として存在するあらゆる物事が、過去にそうであった姿を思わねば、私達はこの世界に生きる意味をまったく失うに違いない。そして、そんな失ってしまった幽鬼のような人々に同調することもまた、あってはならない。
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