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プライドは強くてもいいけど、せめて柔らかく
プライド、プライドと人は言う。
それがあろうがなかろうが、軽かろうが重かろうが、 弱くても強くても、それは全部がプライドだ。
プライドについて多くの思われていることは、プライドなどなければ、人は生きるのに苦労しないということだ。どんな困難がやってきても手を変え品を変え、生のための選択肢を見つけ出すことができる。
なぜならプライドとはこだわりであり、選択肢を自ら狭めることだからだ。狭めることによって集中力を高め、自分が決めた高い目標に手を届かせる、それがプライドの最も主要な効果である。
だからプライドは、「それ以外」を許してくれない。集中力を高めるという効果があるのは、他を捨てているのだから当然である。むしろ他の何かが見えているようでは、そのプライドはまだまだだ。プライドが醸成されるのは、相応の経験と自信があってこそである。
そういう意味では、プライドには良いものと悪いものがある。プライドそのものは、裏打ちされた「自分の基準」の表れだから、それがすぐに悪いとなるわけではない。
問題なのはやはり、集中力を高めるという効果ばかりが起こってしまうことである。この悪いプライドは、柔軟に考えるべき時でも人を頑なにし、必要な選択肢を取らせない。そのせいで人は、余計な悩みを抱え、問題を解決できず、しかもそれが長い時間続いてしまう。
それが嫌なら、プライドは強く持ったり、弱くもったりするのではなく、柔らかく持つのがいい。プライド自体はしっかり持っておかないと、自分の基準がなく流されるまま朽ちてしまう。しかし強く持ちすぎてもこだわりにがんじがらめだ。
だから、柔らかさ。柔軟性。
はっきりとしたプライドがありつつも、ある選択肢だけしか見れないのではなく、他の選択肢を考慮できる。自分の選択がプライドゆえなのかを分かる。そしてそれを元に、他人の権利持つプライドとそのための行動に理解を示せる。
そういう力としての、柔らかなプライドだ。少なくとも私たちは、様々な選択肢をどんどん選んでいかねばならない時代に、プライドなどに絡まっている暇はない。
なので少なくとも、自分のよく発揮してしまうプライドが強いのか弱いのか柔らかいのか、どういう時にプライドが発揮されてしまうのか、そういうことと向き合って、自らのプライドを理解してみることが推奨される。
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