仕事の「義務感」と「楽しさ」は両輪か?
仕事を義務感でこなすという時がある。仕事なのだから当然だ。それは単に生活のための手段であって、その中に設定された目標や目的やモチベーションがあったとしても、あくまで「そうしなければならない」からそうしている。そういう意識があるのが仕事である。
一方で、「楽しい」仕事というものが存在する。あるいは、仕事を「楽しむ」ということだ。好きなことを仕事にしている人々は、それを楽しんでいると思われている。仕事で成果を出すことや、昇進していくこと、任されていくことが楽しい人もいる。なんにせよ、そういう場合に仕事は楽しまれている。だからそれは可能だ。
仕事という概念における、この2つとはなんなのだろうか。つまり私達がこの世のおよそ「仕事」というものに相対した時に示す「義務感」そして「楽しさ」という感じ方は、なぜ存在するのだろうか。
そして、一見したところまったく反対にあるこの2つが、どうして同じ「仕事」というものに結びついているのか。それはどういう理由なのだろう?
思うに、仕事とはそもそも、「やるべき」ことなのだ。言い換えれば、私達が人間である以上、避けては通れないものである。だからそれは必然的に義務的なものである。どう言い換えてみたって(やりがいとか、成長とか、社会貢献とか、人生の目標とか)、それはただ1つ、やらなければならないものでしかない。それ以上でも以下でもないものであって、そうでないように仕事を言い表わそうとする言葉や態度は全て、その表そうとする者に都合の良い言説である、
しかし、というかだから、私達はこの仕事という義務に楽しさを見出すのではないか。あるいは、楽しかった何かを仕事としてもやり続けられるのである。
というのも、義務だというのは人生の義務である。苦役。点に正しく全うするための贖罪。この生がなんのためにあるのか。ある宗教観としてそれは罪を償うためである。
その意識は普遍である。仕事とは、できればしたくないものなのに、そうせざるをえないものだ。目的は様々ある。金、他人、信仰、生、性癖など。つまりこの「仕事」という概念に深く深く、その義務感と人間としての存在がこびりついている。だからあらゆる行為は仕事になるし、反対に仕事とはあらゆる行為へと繋がっていく。
それに比べれば、「楽しさ」など些細なことである。仕事中にそのように感じる瞬間はあまりなく、ふと振り返ると「楽しかった」ということがほとんどだ。それは、渾然一体となっている。なぜなら楽しさもまた、人生だからだ。人間だからだ。
そういう意味で、仕事が「義務感」だったり、「楽しい」というようなものであるわけではない。仕事が人生ならば、義務感も楽しさも底にあって当然のものである。なんならこれら2つは違うものですらない、相反するものであすらない。
仕事とは義務で、そして楽しいものだ。でも、常にそのどちらかであるはずのものでもない。どちらもなのだ。どちらも、私達人間にとっての「仕事」には相応しいものである。
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