見出し画像

「飽きが早い」とは「飽きるまでもない」ということだ

 飽きが早い。それは旬が過ぎ去るのが早いことと同義として扱われる。
 仕方のないことだ。
 この情報化社会の中で、素早く伝播していく情報と、絶え間ないコンテンツ(つまり、他人ごとに眺めていることのできるこの世のあらゆるもの)の供給により、私達の消費スピードは速まるばかりだからだ。
 次から次へと入ってくる情報をすべて処理できるはずもなく、捨てていくものが多いのは良く分かる話である。しかし、だからこそ、「飽きる」というのとそれは違う。なぜなら私達は何かに飽きるほど、何かに入れ込んでいるわけではないからだ。
 本来飽きるとは、もっとゆっくり、もっとエネルギーのいることだからである。

 飽きるとは何か。それはある物事にもう興味が無くなるとか、見捨てるとか、どうでもいいと思うとか、そういう心理のことだ。とすれば、それは心理の内側で、物事を判断する基準に変化をもたらすものだと言える。つまり飽きるとは、自分自身の価値を大きく変化させるような、1つの価値観の問題なのである。何を信じるのか、何を重く受け止めるのか、そういった好み、人格にすら影響を及ぼす重大なものであり、無視できない。

「飽きる」ことは、本来は長いプロセスをたどる。
 つまり最初に、何かを気に入ること。次にその何かをどんどん知っていくこと。するとその何かについて、私達は「こうである」という常識を持つことになる。それはその人独自のものだ。同じ物事に対して、同じ常識を誰もが持つとは限らない。常識は、その物事を当たり前に感じさせる。それを信じることは、ここから始まる。信じて、信じて、しかし、物事には限界がある。
 信じきれなくなった時、私達は岐路に立たされる。それと添い遂げるのか、見限るのか。見限ること、それが「飽き」である。もう付き合いきれないと捨て去る。別の何かに向かって行く。

 要は、飽きるとは「こうだと信じていたもの」を「その程度だと見限る」ことである。それは大きな価値観の変容だ。信じていた分だけ、その見限りも深い。失望も大きい。だから本当は、私達は中々、その物事を飽きることができないはずだった。大変だから。エネルギーを使うから。
 よく考えられているように、自然とそれに興味を失くすというのは、だから、厳密に言うと飽きではない。情報化社会のスピードに合わせるために、たくさんのものを取り入れては捨てていくことについて、とてもではないが「飽きる」とは言えない。「飽きた」からだとも言えるわけがない。

 本当に飽きるためには、私達は何かを信じなければならないからだ。そしてそれに失望しなければならないからだ。そのようなプロセスを、一朝一夕でできるものではない。そのような心理的な動きを、毎日のように繰り返していくことは難しい。
 だから、巷でよく言われている「飽きが早い」というのは、そもそも飽きているのではなく、最初から理解しようとしていないものを、ちょっと眺めて忘れてしまうだけなのだ。掴んですらいない。道に落ちている奇妙なものを眺めて、しゃがみこんでいるかもしれない。ただ見ている。でも拾いはしない。時間が経ってふとした頃に、立ち上がって去っていく。後ろを振り返りもせずに。

 私達は飽きてすらいない。これは根の深い問題なのかもしれない。飽きるほど、何かに入れ込んでいるわけではない。飽きるほど何かを信じているわけではない(少なくとも、この世の流行り廃りの中で)。私達は飽きない生き物になったのだ。本当に飽きようとするならば、それは時間も労力もかかることだからだ。
 私達は最早、飽きることすら余裕がなくなっている。飽きるほど、何かを信じようと思えなくなってしまっている。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

いいなと思ったら応援しよう!