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はじめての古文書学習(7) 「古文書の声と方言」 吉成秀夫


 古文書学習会で読み合わせていると、文字がわからないだけでなく、訓読法がわからなくてつまずく。文字がわかっても「詠めない」のだ。
 読み合わせているうちに思い出したのが、子供の頃に親が見ていた時代劇ドラマだった。そのなかで話されていた子供にはよくわからない日本語は、いまから思うと「候文」だったのではないだろうか?

古文書を音読する

 私が所属する古文書学習会の参加者は、私の親世代——いわゆる高齢者の人がほとんどを占める。この世代は時代劇ドラマの候文を耳できいてすんなり理解できていたと思われる。そうでなければドラマのセリフにならないはずだろうから。私はいま四十代後半だが(2024年現在)、テレビで候文を聞いた最後の世代ではないだろうか。私より下の世代は、時代劇ドラマが減っていったので、おそらくほとんど接していないだろう。

 子供のころテレビで「~~にて~~そうらわば、~~ござそうろう」とか「ぞんじたてまつりそうろう」などふだん使わない仰々しい言い回しがでてくると、とまどうばかりで意味が頭に入ってこなかった。
 いま、古文書学習会の読み合わせをつづけるなかで「~~そうろう」くらいには慣れた。しかし、いまでも文意を掴むのが難しいと感じるときがしばしばある。とくに混乱するのが助動詞。漢字だと「可」「被」「令」「為」だ。返読文字なので読みの順番がひっくり返る。「被下候」は「くだされそうろう」、「令仰」は「おおせしむ」。さらに助動詞が二つくっつくことがある。「可被存」は「ぞんぜられべく」といった具合だ。極めつけは「為」。これは「なす」「する」「たり」「として」「ため」のどれかで読む。私はこの「為」の字がでてくると、まず天を仰ぐ。そしてこうつぶやく。「神様、この字はどうやって読むのでしょう」

 それにしても不思議なことだ。歴史をひもとけば、そもそも最初は外国語である漢文を日本語によって受容するための、いわば翻訳言語として「変体漢文」と呼ばれる文体が開発された。それが和漢混淆文や候文となって、書き言葉として定着してきた。単語レベルで「漢語」が残り、数多くの「かな文字」が開発されたわけだが、そのなかでどうしていつまでも返読文字のようなまっすぐ読めない書き方が残ったのだろう。これが「格調の高さ」というものだろうか。その一方、江戸時代の町人文化である草紙はかな文字がほとんどで、返読文字がない。だから読むのが楽かというとそうでもない。返読文字がないかわりに仮名ばかりが多く、これはこれでわからない。

「このあいだかつた女郎めはつらはさるぼうのやうであつたがあんまりこへたごでなくてこしつきはやなぎだるであつたがしたゝるゐめつきをしておれが手おけをじつとにぎつてほかのひとだるよりおまへがかわゆひといつたらはんだいそふなそんなことはおけ〱といつたらひたいへつのだるをはやしめをさかだるのかゞみのやうにしてはらをたつておれをとりころしはやおけへいれるといやアがつた」(十返舎一九『文字の知画』より「をけ」)

 いま、これがすんなり読めるという人はどれくらいいるだろう。じつは江戸の言葉や道具の名前などについて予備知識があればずいぶん読みやすくなる。博学であればあるほど古文書の読みの精度は確かなものになっていくのである。ふだんの雑読も大事なのだ。
 あんがい江戸時代では、声に出して音読する「本読み」の人のまわりに、字が読める人もそうでない人も大勢あつまって、みんなでわいわい笑いあったりおしゃべりしながら読んでいたのではないだろうか。文書を音読する声は、空間のなかで人々を結び付ける中心的な役割を果たしただろう。そんな想像をめぐらしたところ、思い当たるふしがあった。あれ、古文書学習会で私たちも毎回そんなことをしているじゃないか。

今回の執筆で参考にした資料


古文書に残る方言「じり」

 ヨイチの場所請負人、林家の文書を読んでいると、ときどき方言が出てくる。当時の、その地域で使われていた話し言葉がそのまま文字に記録されているからだ。たとえば「じり」。これは私には懐かしさがこみ上げる言葉だ。
 私は北海道のなかでも道東の清里町という町に生まれ育った。同町出身の文学者に詩人の金石稔がいる。私の父は更科源蔵で有名な弟子屈の出身、母はホタテで有名な猿払の出身。私が子供のころ、両親からときどき「じり」という言葉を聞いていた。濃い霧で、ずぶ濡れになるほど大粒の雨滴でできた霧のことを「じり」と言った。札幌に移り住んでからは、そのような霧が発生しないのですっかり聞かない言葉となり、知らず知らずのうちにそんな言葉があったことさえ忘れてしまっていた。それが不意に古文書のなかにあらわれた。私が生れるよりずっと以前の言葉として、忘却のはるかかなたから顕ち現れた。「じり」が記憶のトリガーとなって、これまでのすべてが一気に想起されるような懐かしさを覚えた。江戸時代の松前あたりでも、そのような濃霧がたつことがあって、その気候を「じり」と言ったらしいことに驚いた。
 弁財船はどう読むか。私はずっと「べんざいせん」と読んでいた。ある日、余市から参加くださっている人が「べざいせん」と読んだ。私が驚いてそういう読み方もあるのですか?と質問したところ、他の方々からも、そういう読み方があると教わった。ある人は、方言かも知れないねと付け加えた。そうか方言なのかと思っていたところ、今年出た中公文庫に「幕府密命弁財船・疾渡丸」という時代小説があった。著者は早川隆。この本は表紙にタイトルのルビが書かれていた。ルビは「べざいせん」だった。小説の舞台は水戸藩。ということは「べざいせん」なる呼称は松前方言というわけでは無さそうだ。そこではじめてインターネットで検索してみると「べざいせん」が一般的であることがわかった。「べんざいせん」というほうが珍しい、というかそのような呼び方は通常しないのかもしれない。思い込みというのは怖ろしいものだ。
 林家文書では松前の絵師・早坂文嶺がたびたび登場するのだが「文嶺先々」と表記されている。むかしは「せんせい」のことを「せんせん」と呼んだ、それをそのままに書き記したらしい。

 ことほどさように、漢字の読み方も一通りではない。文字だけで書かかれる翻刻文には表れてこないが、しかしそれを「どう読むか」で、歴史の響きにおりてゆく身体感覚がおおきく異なる。古文書は文章の意味だけでなく、文字のたたずまいや言葉の響きがよりおおくの魅力を放っている。そんな言葉のもっている「揺れ」や「ゆらぎ」のなかにこそ、歴史の微細な質感が現れてくるらしい。

【執筆者プロフィール】
吉成秀夫(よしなり・ひでお)
1977年、北海道生まれ。札幌大学にて山口昌男に師事。2007年に書肆吉成を開業、店主。『アフンルパル通信』を14号まで刊行。2020年から2021年まで吉増剛造とマリリアの映像詩「gozo’s DOMUS」を編集・配信。2022年よりアイヌ語地名研究会古文書部会にて北海道史と古文書解読を学習中。
主な執筆は、「山口昌男先生のギフト」『ユリイカ 2013年6月号』青土社、「始原の声」『現代詩手帖 2024年4月号』思潮社、共著に「DOMUSの時間」吉増剛造著『DOMUS X』コトニ社など。

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