「メンやば本かじり」記憶にございません勝訴編
あなたは記憶力が良い方だろうか?
言われる前に答えよう。悪い、悪いぞ、私は。
ジョン・ケージの4分33秒(無音の音楽作品)くらい、探しても何も出てこないほど悪い。
悪すぎて、悪いことを忘れるくらい悪い。
うん。
きょ、今日は、ここまでにしようか(涙声)。
と、言いたいところだが、記憶力が悪いだけでなく、どうやら改竄までしてしまっていることに気づいた。こいつあ、大変だ。
というわけで、今回は謝罪の回でもある。
あれは4年前。
私は映画館へ行き、偶然にも知っている人に会った。私の隣は、女の子二人組で、その隣にその人が座っていたのだ。たまたま同じ日に、同じ映画館で同じ映画を見て、さらにふた席分間があるとはいえ、こんな近くの席を予約するなんて!
アメイジング! なんたる偶然!
と、私は記憶していた。ずっと。
だがしかし、肝心の相手は私と会ってなんかないといっていたそうだ。
あれ? あれれれ?
ここで一つの問題が出てくる。単純に相手が忘れているのか、私が記憶を改竄しているのか。
そもそも、相手が忘れているのなら、私だけが記憶していたとしても、会ったという記憶にどれほど意味があるのか。無いな。
なんてことを考えていると、虚しくなり、なんとなく「きっも。勝手に会っていたことにすんなよ」という相手の心の声まで聞こえてきそうだ。
うううう、辛い、辛いぞ。
記憶力が悪いと、こんなアホなネタを生んだしまうのか、ちくしょう。
とはいえ、ここで立ち止まってうじうじと腐っていても仕方がない。それに、相手の「記憶にございません」が正しいのだろうから、納得もせずに「よっ、あんたが正しいぜ」なんて言うのは不誠実だろう。
ということで、今回紹介したいのは、記憶にまつわる書籍。
とっておきの一冊に行く前に、「お前だけだよ、記憶の改竄なんてするやつは。病院へ行け!」なんて言われそうなので、改竄は簡単にできる、という話をさせてもらおう。自己弁護だ!
ジュリア・ショウ氏による『脳はなぜ都合よく記憶するのか』(講談社)に、あり得ない幼少期の思い出を作り上げるという話が書かれている。
本書で紹介されているのは、ディズニーリゾートへ幼少期訪れたことがある人に、ディズニーリゾートではミッキーと握手ができるという広告を読ませるという実験だ。すると、被験者は自分も幼少期に訪れた際、ミッキーと握手をしたと言い出すという。ただ、ミッキーとの握手なら、その記憶は事実かもしれない。そこで、今度はバックス・バニーと握手できるという広告を読ませると、自分もバックス・バニーと握手をしたと思い込む人が出てくるという。
そんなわけあるかい。人から記憶を操作されるなんて──でも、それは『脳はなぜ都合よく記憶するのか』によるとあり得るというのだ。
例えば──。
あなたは親から
「◯◯(あなたの名前)がニ歳くらいのころね、抱っこしようと屈んだら、シャツのボタンがポーンって弾け飛んじゃったのよ。そしたら、◯◯の口へ入っちゃって! 慌てて駄目って叫んだけど、飲み込んじゃったの。でね、苦しそうに咳をしはじめたから、慌てて救急車を呼んで……」
という話をされたとする。
あなたはそんな記憶がないが、「そうなんだ」と信じたとしよう。
だが、親がこんな話をしたの日は4月1日。
つまり、エイプリルフールだった。
あとで親は、「ウソだよ」と告白するつもりだったが、会社からの突然の呼び出しに血相を変えて家を出て、すっかり言い忘れてしまったとしよう。
数日後、友人が「いやあこの間、会社の人が熱中症で倒れて、付き添いってことで、人生ではじめて救急車に乗ってさ。もちろん、会社の人は無事だよ」
なんて話をする。で、話の流れで
「◯◯って救急車乗ったことある?」
と友人に聞かれる。
あなたは「ない」と言いかけ、ふと親から聞かされた話を思い出す。
「小さい頃なんだけどさ。親のシャツのボタンがパーンって吹っ飛んでさ。そしたら、偶然私の口に入って」
「なにそれ! やっば!」
「で、ボタン飲み込んじゃって。でも、喉で詰まって、親は慌てて救急車呼んだの」
もしかしたら、この話をしているとき、あなたは「駄目ー!」と叫んでいる親の顔を頭に思い浮かべているかもしれない。
さて、このボタン事件。友人には大ウケだった。話が好評なことをいいことに、その後飲み会の席など繰り返しボタンネタを披露する。そうして、いつしかあなたは、実際に起きたこととして記憶する──なんてことは絶対にあり得ないだろうか。
完全に否定はできませんぜ。なにせ、脳は意外とごまかしをしてくる。
私がそう思うようになったのは、サッカード抑制を知ったときだ。
スマホで動画を撮影する際、素早く左右に振れば、ブレた映像が撮れる。だが私たちは、眼球を素早く動かしてもブレた映像は知覚しない。これは脳がブレた映像を知覚化しないように抑制しているためだと言われている。つまり、脳はありのままの真実すべてを私に知らせてくれるわけでないということだ。
そして、往々にして記憶しておきたいことは忘れ、忘れたいことを記憶していたりする。
完全に記憶をコントロールすることは不可能だ。今後衰えていくこと(そしてある部分だけ強調されたりすること)を前提に付き合うしかない。
では、いったいどうやって?
そこで今回紹介したいのは、そんな記憶との付き合い方について考える、『記憶のデザイン』(筑摩書房)だ。
ちなみに上であげた『脳はなぜ都合よく記憶するのか』は、本書で紹介されている。
本書では、基本的にネットに溢れる厖大な情報とどう付き合うかが書かれている。ネットの情報も記憶となるし、そもそも不快な情報やフェイクニュース、そして忘れる権利、これらを知ることによって、自分の記憶との付き合い方も見えてくるのだ。
そう、記憶も世話をしてやらなきゃいけないのだ。ほったらかしておくと、とっちらかってしまう。そして、私のような改竄まで起きるのだ(ほうら、反面教師だよ)。
記憶が書き換えられる!? なんだと!?
私たちは、その気になれば、毎時間、毎分、毎秒、ネットの情報を得ることができる。ネットは世界中の人が投稿できるのだから、一つの事件に数秒ごとにさまざまな意見が投稿されることもある。
一見正しそうに思える内容が、数時間後にはコミュニティノート(Twitterによる機能。信憑性が低い、修正が必要と思われる検証結果がある、などという場合に、その疑わしい投稿へ書き込める機能だ。ただ、このコミュニティノート自体も信憑性が低い場合は審査にかけられる)によって訂正されていたり、情報が書き換えられることは日常的に起きている。つまり、その度に記憶も書き換えられているわけだ。
コミュニティノートで二転三転する情報をいかり取り入れるのかも、私のように自分と他者の記憶に齟齬がある場合も、私自身に知識と、さらにその知識を踏まえての思考が必要となってくる。
ではここで、川勢の馬鹿な記憶の改竄が起こったのか、振り返ってみることにする。
あの日、私は映画館へ行く前に書店へ立ち寄り、詩と文学の雑誌『ユリイカ』を購入した。あのときの特集は、「書体」だった。正直、私は書体に詳しくない。映画館への道のり、そして映画館のシートに着席したあとも読みながら「むむむ難しい」と脳がオーバーヒートを起こしそうになっていた。そんなとき、私はその人のことを思い出した。博識で、デザインへの造詣も深く、きっと同じ雑誌を読んでもすらすらと読めるのだろう、と。
そして、そのとき見ようとしていた映画が、30分間だけ他人の体に(魂が)入れるというものだった。
そうだ、あのときの私は、こう思った。
もし30分間だけでも、その人になれたら。どれだけこの雑誌を読むのに苦労しないのだろう。どれだけ、世界は明るく光輝くものになるのだろう。
そんなことを考えていた。
ああ、そうか。そんなことを考えていたから、会ったと勘違いしたのかもしれない。
自分だけでは、記憶は成り立たない。その記憶の真偽を問うには、他者の記憶に頼るしかない。私の場合は、相手が記憶にございませんと言っている以上、仮に会っていたとしても、その記憶は保存していても意味がない。
私の場合、その人への強い尊敬や憧れの念があった。だからこそ、自分の記憶より、相手の記憶を信じ、そしてその思いを尊重すべきだと判断したわけだ。
「はいはい、あんたは正しいよ」という拗ねた態度でもなければ、考えなしに相手へ賛同したわけでもない。
だったら、こちらもそんな記憶は捨てて、綺麗さっぱり忘れるのが道理だろう。
なあに、忘れるのは得意だ。なにせ、私は記憶力の悪さでは定評があるからね。
◾️書籍データ
『記憶のデザイン』(筑摩書房)山本貴光 著
難易度★★★☆☆ コラムや註釈でかなり丁寧に説明してくれているので、内容としては★5だが、読みやすい
ネットには全ての情報が入っているわけではないが、英語などの他の言語で自分が調べたいものを検索しても、出てこなかったり、逆にもっと深い知識を得られたりする。スマホを持つ前に、絶対読むべき書。もちろん、スマホを持ったあとも。
『脳はなぜ都合よく記憶するのか』(講談社)ジュリア・ショウ 著 服部由美 訳
難易度★★★☆☆ 実験データも多く、記憶に翻弄される人がこんなにも多いのか、と衝撃
記憶の問題だけでなく、認知から発展する人の見分け方など、そもそも記憶に最も翻弄されているのは私なのでは、という気分が味わえる。