文を読むのも書くのも、私ったら生き方と連動していたから辛かったんだ
しんどいぞ。もう何もしたくないし、書きたいことも山のようにあるのにパソコンに向かうと無意味に思えて書きたくなくなる。
そこから「自分が無価値に思えて」、「何の役にも立っていない気がする」のがますます自分を落ち込ませる。
生きていて価値を感じない。何の意味があるんだろう。
私なんかいなくても良い。
これが今年に入ってからの「ああマズいな。ちょっと普通じゃない落ち込み方」と一番底をうった瞬間のグルグル思考。
落ち込むこととか自分へのダメ出しは前からあるし、PMS(月経前症候群)の時ってこんな風になることもある。漠然とした不安感におそわれたり、些細なことにイライラしたり。「いつもはやり過ごすのに。きっとホルモンだな」とわかる。
「しばらくダメかもしれない」と思うのに、短ければ半日、長くても2日で「アラ?」と憑き物が落ちたように落ち着いてくる。アッサリ復活するので、ほうらやっぱりホルモンのせいだったや~ん。とわかる。
だけど今年入ってからのはその揺れが来る度に落ち込み方が深刻で、頻度も多い。その頃は5日くらい経ってもおさまらなかったので休まないといけないなと思った。1月2月の辺りの私。
休んでいる最中、「載せなくても良い」と思うと文は面白いくらいに書けた。読み返してみると、やっぱり載せられるようなものではなかったけど、スッキリした!
自分の中に感情を閉じ込めておくのは良くないなって、誰もがわかっていることを再認識する。
夫や友人何人かにブツクサと細かい愚痴を聞いてもらう。聞いてくれた相手は私の様子が変なので、意見を言う時も気を遣ったようで、とにかく感情を吐き出すまで耳を傾けてくれた。
感情をすべて吐ききると、やっと自分を救うために心が働き始めた。
ホルモンのせいにしても、そこまで落ち込むのは理由があるはずと探ってみる。
いくつかあるけれど、noteの記事を読みながらの自分の気の持ち方に関係しているのもわかった。
前から私も時々書く「これおススメですよ~」の記事。それは本だったり映画だったり。
それに対して私は「フォローしている方がおススメしてくれているのだから、知りたい」と思ってしまう。読みたい。観たい。何かしらの商品だったら買って使いたい。
無理しているつもりは全然ないし、私にとっては自然な欲求なので、他人に言われて我慢するものでもないと思っていた。でも自分が「知りたい人」のおススメだから、それを知ることでもっと相手を知れるんだ。と、どこか強迫的に思っている。と気付く。
おススメの体操でもあればやらなければと思うし、おススメのアプリも使わなければと思う。若い人が「これが流行っている」と書けば「そうなんだ。知らなくちゃ」と焦る。知らないと、アップデートできていないダメな私。とか。
でも。
なんなのそれ。
我に返った。
ツイッターでも私は自分の趣味の物を追っているだけだから気が楽なはずだった。noteとつなげると、強迫観念みたいのに追いかけられてしまうのだから、できるだけ気持ちがラクになるようにと心がけて対処していたはず。
なのに、いつの間にかMCU(マーベルシネマティックユニバース)についても詳しい人たちに追いつかなければと焦っていた。だって私、MCUが好きなんだもの。知っておかなくちゃ。って。MCUはマーベル作品が原作なので、原作を知っている人たちがいて、絵も描ける人たちがいて、映画やドラマだけでなく、マーベル作品を扱うソニーのキャラクターもいる。全部知らないと「好き」と言ってはいけない、なんてことないってずっとわかっていたのに、何か焦りがあったみたい。
スマホやパソコンを使いこなせていない自分が時代に追いついていないからと、またそこでも焦る。
お仕事している人がきちんと責任もって自分の面倒を見れているから、私もできれば働かないと、と焦る。
そうやって他人を基準にしてしまい、何もできていない自分が、何の役にも立っていなくてダメだなと思ってしまった。
体が弱いとか繊細さんだとか書くと、そういうのを盾にしている、武器にしている、か弱い自分を演出して怠けているんじゃないか、と思われるからちゃんとそれについてもフォローしておかないと。多分noteを始めてからそんな風に思い続けていたみたいだ。ずっと。自分を弁解しなくちゃと。気づいていなかった自分が哀れなくらい無意識だった。
そう考えると文章を向上しようとしない自分が、生き方や考え方に象徴されている気がする。文章を書く自分と日々暮らしている自分がつながっているとしたら、そりゃずっと焦ってずっとダメ出しでずっとしんどい。
何かをしないといけない。好きならすぐ行動に移し、知り尽くし、みんなみたいに少しずつ向上していかないといけない。頑張っていないといけない。
なのにできていない。
焦って誰かになろうとしている私がそこにいた。そんなの自分の人生じゃないみたい。
誰の人生を歩もうとしているのだろう。誰かの真似をしていれば、それが「普通」なのだろうか。一般性があってさらに褒められる素晴らしいものであるにしても、「私の人生」はいつまで続くかもわからないのに。
そう思ったら何読んでも、何書いても、どう感じても、それはそれで良いじゃないの。と思えるようになった。意味のないことを書いたって、オチがなくたって、伏線回収しなくたって、感情にまかせたものでなければ。故意に傷つけようとしたものでなければ。読んでくれる方たちに少しは気を遣ってしまうにしても。サービス精神が働くにしても。それでもあんまりあちこちに気を遣っていたら何も書けなくなっちゃう。
「書く」や「読む」についてと、自分の生き方は連動していたんだ。
人は存在しているだけで良いのに。
価値がどうとかの前に、いる意味はあるものだ。身体の中の細胞のように、地球の一員として、私たちはただ生きているんだ。互いを思い、補ったり、守られたりしながら。
そう思うと、つくづく書きたいことなどまたいくらでもあって。自分にとってさえ意義ある内容じゃなくても良いと思うと、気が楽になった。
どんどんこだわりがなくなる最近。歳のせいなのかもしれないな。
「自分なりに」の本当の意味をがっしり自分のものにしつつある最近。ようやくそれを快適に思える。自分で思っているより全力で走ってきたみたいだから、快適できっと良いんだと思います。