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心が疲れた時に、大好きな映画を観たくなる私の理由~マイガール~

 心が傷ついて疲れちゃった時、皆さんはどうやって立ち直ろうとするだろうか。
 少し環境を変えるために、好きなことをして気分を晴らそう。みんなそうなのかな。自分の内側に潜るのが好きな私も、これはいくら潜ってもどうにか答えが得られるわけではないと気付いている時、何かで気持ちを晴らそうとする。
 好きなこと。

 映画。漫画。ゲーム。文を書く。音楽を聴く。歌を歌う。写真を眺める。外を歩く。
 自分の好きなことをできる限り思い出し、何をしようとしても、こういう時は心が欲するものしかしたくないから、無理やり気を晴らそうと思っても惰性になる。

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 数年に一回、観る映画がある。
 最も好きな映画だと何度も書いてきた「マイガール」。
 プロフィールには、マーベル映画以外だと、他に「最強のふたり」「ニューシネマパラダイス」「はじまりのうた」「ララランド」「この世界の片隅に」「オデッセイ」「ボヘミアンラプソディ」「ジョジョラビット」「お熱いのがお好き」など挙げている。でも名画に挙げられているものと比べると、「マイガール」は、それほど観られていない。

 思春期入り口の女の子の成長物語なのだけど、それにしてはストーリーが悲しすぎるからかもしれない。時代が古いから、血の誓いとか唾をふきかけるとか、今は衛生的にそしてあらゆる病気の危険性なんかで子供に見せたくないシーンがいくつかあるからかもしれない。(※親子で観た時に、今はダメなこと、何故ダメなのかを説明する必要がある。しっかり説明できないなら見せない選択を)

 何故好きかと聞かれても、悲しい話が嫌いな私はずっと説明できずにいた。

 一番好きなシーンは、お父さんのガールフレンドが、主人公ベーダに、「私の顔ってどうかな」って聞かれたところ。その褒め方が胸を打たれる。子供に聞かれた時に、こんな風に具体的に一つ一つを褒めて、自信をつけてあげられると良いのに。「かわいい」「キレイ」なんて抽象的に言わないのよ。もちろん人とも比較なんかしない。「キラキラした目」とか「可愛い鼻」とか「びっくりしちゃうくらい素敵な口」みたいに具体的に、自分の印象を言葉にし、どう見えるかを褒める。
 子供ができたら、こんな風に褒めたいなって思ったものだ。現実はうまくできなかったけど。


 久しぶりに観たくなって、1時間40分の映画と向き合った。

 観る度に年齢は違うから捉え方も違うのに、何度観ても号泣しちゃう。

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 観始めると、改めて周りの景色が目に飛び込んできた。意識が強く向いたのは初めてかもしれない。

 舞台は1972年か73年のアメリカ。
 私がニュージャージーで暮らしていたのは、1975年1月から。

 主人公ベーダの暮らしは、私の幼少期の風景そのものだったのだ。

 近所を、夜含めてウロウロしてもそれほど心配はない住宅街。お店のある街並み。車の形。人々のファッション。子供たちが乗る自転車。テレビを見入る家庭。「感情を言葉で説明しなさい」という学校教育。言い返さないとバカにされて孤立する環境。国歌を歌い、毎朝言わされる忠誠の誓いの言葉。暗記してしまって今でも言える。ほぼ音で覚えているのに。国家に忠誠なんか誓いたくないのに。

 ‘I still remember that’
 大人になって、英会話教室の先生と喋っていた時に、‘ I pledge allegiance to the Flag ...’と言い出すと、先生も途中から合わせて言い出し、二人で言い終わり。私が「今は好きじゃないんだけど。意味わかってなかったから。覚えてるんだよ」って肩をすくめると「ああそうか。なんてこった」って呆れられた。
 毎朝言わされたんだもの。学校で。胸に手を置いて。そしてその後、国歌を歌うのよ。

 ベーダが国家を歌い、忠誠の誓いの言葉を当たり前のように言うシーンで、当時の自分を重ねる。

 この映画の中でベーダは母親の死を、祖母の、生と死を行ったり来たりしているような日常の姿を、そして父の葬儀屋の仕事を、受け入れられない。
 思春期入り口の女の子にとって、「死」を意識する日常ってどのようなものなのだろう。
 父親のガールフレンドが、ベーダを見て、父親の閉ざした心を見て、この家族の風通しの悪さやそれによるベーダの心の傷に気が付く。「生」をそして「性」を教える。

 もうずっと切ない。
 軽妙に描かれているけど、切ない。

 そして親友のトーマス・J。
 やんちゃでもないし、ひ弱で、理屈っぽくて、パパやママの言いつけを11歳の今もきちんと守っていて、生真面目。でも落ち着いていて、ベーダを優しく見守っていて、芯が強く、ちゃんと自分なりの答えをその時その時で持っている子なのだ。
 観ていたらきっと彼が大好きになる。特に自分に息子なんかいたら、たまらない。

 ベーダと、温かい友情と、ほんのり淡すぎるくらいの恋心とを育んできた。


 最後のシーンで、ベーダの父親が、トーマス・Jの母親と話す時、ベーダの父親の表情に仕事の大変さを感じた。この辺りは役者だなあと感心する。

 皆さん、なかなかの面々で。
 ベーダの父親は、ダン・エイクロイド。TVコメディアンからたくさんの映画作品に出た。「ブルースブラザーズ」とか「ゴーストバスターズ」と言えば、ご存知の方も多いだろうか。
 そのガールフレンドは、ジェミー・リー・カーチス。トニー・カーチスの娘。トニー・カーチスは、私の大好きな「お熱いのがお好き(マリリン・モンローのコメディ映画)」にも出ているのだけど、そこでほぼずっと女装していて、これがめっちゃ彷彿とさせるのだ。娘の方を見ているとね。
 そしてトーマス・Jは、マコーレー・カルキン。「ホームアローン(1)」のちょっと後で、問題の多い最近とは違ってあどけない頃。


 この映画、どれだけ好きか。そして何故好きか。
 精神的にボロボロなしんどい時に、何故欲するのか。
 今回もこの映画で、傷ついていた自分の気持ちを立て直した。

 ちょっと不思議に思っていたところに、こんな記事を見つけた。

ストレスは、忘れて無くすのではなくて、自分を見つめ直して、好きな自分を呼び戻して、ストレス要素を気にしなくするのが良いということなのだろう。

 ですって。
 なさじさん、名言。
 「好きな自分を呼び戻して」なのよ。好きな自分を呼び戻したら、ストレス要素が気にならなくなる。
 そうか。だからなんだ! 

 ようやく気づいた。幼少期の自分が好きなんだ。あの頃の私。
 皆に可愛がられた頃。階下の大家さん一家に。中国人だったけど、長女のダンナさんは白人で、私とよく遊んでくれて私もなついた。隣のユダヤ系一家のおじいさんも私を可愛がってくれた。病院に行けば医者たちは子供たちに付き合いが良かったし、レストランで自分で注文すると、優しい目をして「ちっちゃなレディ」として対等に扱ってくれた。

 私は自分の考えを友達たちの中でもきちんと自己主張できていた。家庭が明るかった。父にじゃれて、母の笑顔を見上げていた。近所なら気まぐれに好きなところに行って自分の好きに遊べる自由があって。走り回った。近所のお母さんたちに「かせみちゃん、大胆過ぎるけど大丈夫?」って心配されるくらいに元気だった。体が丈夫じゃないから、度々寝込んだけど。でもたくさん遊んだ。夏は毎日のように泳いだ。やっぱり風邪をひく日も度々あったけれど。一人で公園に出かけて、その場にいる子たちと遊んだ。一人でも楽しく遊んだ。兄の友達たちに遊んでもらった。自分の友達の家に行って遊んだ。自分ちでも遊んだ。

 今だって自由なはずなのに。そりゃやらなきゃならないことはあっても。夫との日常も楽しくて穏やかで夫のことも息子のことも大好き。両親と特に母とうまくいかなくなったことはあったけど、今は愛情を再確認している。信頼できる友達もたくさんいる。
 なのに。
 どうして私はわざわざ自分からしんどい場所に出かけて、しんどいことを考えて、自分を苦しめようとしてしまうのだろう。
 大人であってもあの頃の私で良いのに。
 体が丈夫じゃなくても自分を好きでいて良いのに。
 うまくできなくても人と比べないで良いのに。
 自分を嫌いにならなくて良いのに。

 主人公ベーダの表情や仕草や恰好を見ながら、懐かしい自分を重ね合わせた。住宅街や店が並ぶ風景を見て、幼い頃に見た景色を思い出した。私はこの映画を観て、幼い頃の、大好きだった自分を呼び戻して、自分を見つめ直しているんだ。
 だから気持ちが疲れた時に観たくなるんだ。

 やっぱり大好きな映画。これからも私は一番好きな映画に挙げるだろう。

 好みの理由が個人的過ぎて、周りにおススメかどうかは何とも言えないけど。

 ここでかかる有名なテンプテーションズの「マイガール」でなく、インストラメンタル曲。私はエンドレスで聴けるくらい好きなのでおススメ。友人に作ってもらったオルゴールにもこの曲を入れてもらった。
 穏やかなメロディーで、辛い時にそっと心に寄り添ってくれるような曲。私は郷愁の念に存分に浸れる。
 



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