見出し画像

『タタール人の砂漠』ブッツァーティー著(岩波文庫):図書館司書の読書随想

 「この人生からすべてを望むことなどできはしないんだ、諦めなきゃあならんことだってあるさ……」
 
 作中で、とある人物が主人公であるドローゴに向けて言った言葉だ。
 本作を最初に読んだのは五年ほど前だろうか。中年と呼ばれる年代の只中にあった時だ。
 当時でさえこの言葉は深く胸に突き刺さった。
 年を重ねるにつれ、人生の残りの年月や体力、気力の減衰を勘案し、この世には諦めなければいけないこともあるのだという現実に、否が応でも向き合わざるを得ないと意識し始めた時だったからだ。
 そしてこの度再読し、諦めた、あるいは諦めざるを得なくなった事柄が初読の時より遥かに多くなっているのに気付き空恐ろしくなった。
 あまりに多くの時を浪費してしまったのではないかとの悔恨ゆえに。
 
 本作の主人公ドローゴは、二十歳を過ぎたばかりの未来ある将校として登場する。
 彼は自分の住む町から馬で二日かけ、バスティアーニ砦という要塞へ中尉として赴任する。
 そこは隣国と接しているものの、堡塁からは一面の砂漠だけしか見えず、兵士たちの誰もが忘れるほど長い期間交戦のなかった砦であった。
 そのバスティアーニ砦に控えている兵士たちの士気を支えているのは、いつか隣国から攻められた時、勇ましく戦い栄誉を勝ち得ることの空想だけだと言っても過言ではなかった。
 だが同時に、兵士たちにはそのような時が来ることはないと諦め切ってもいた。
 現実的には無用の長物と成り果てた砦だと知り、生気に満ちた青年ドローゴは早々に転任の意思を上役に伝える。
 上役は彼の意思を汲み、理解したように思わせつつも、まずは四か月の勤務を勧める。
 四か月後に健康診断があり、その結果に細工をすれば、赴任を蹴ったというような経歴への傷が付くことなく、次の任地に行けるというのだ。
 ドローゴはその提案を受け入れる。何しろ彼はまだ若いのだ。四ヶ月くらいの遠回りなど、物の数ではないと思いもしたろう。
 
 バスティアーニ砦の、俗世から隔絶した一連の軍隊生活が描写されたのち、再び文章はドローゴを捉える。
 そこでは不思議なことに、二年の月日が経った後も砦での勤めを続ける彼の姿が当然のように描かれている。
 四ヶ月で任地替えが行われるはずだったのが、彼はいつの間にか砦での生活に組み込まれ、抜け出せなくなっていた。
 惰性の生活が変化に打ち勝ってしまったのだ。
 ドローゴは休暇をもらい、帰りたいと願っていた自分の町に戻っても、友人やかつて思いを寄せた女性との間にそこはかとなく隔たりを感じるようになっていた。
 「かつての彼の生活を培っていたあらゆるものが今では遠くかけ離れたものとなっていた」というように。
 
 四年が経ち、編成替えが行われることになった。敵の来ない砦の人員を半数に削減するという。
 かつては重要な要塞であったバスティアーニ砦も、「もう戦略的にもどんな作戦計画からも除外された」のだ。
 そこからまた時が流れ、十五年後、砦から見える砂漠の真ん中に道路が敷かれていた。敵の道路が、すぐ目の前にまで伸びていて、いつでもこちらへ侵攻が可能になる状態になっているのだ。
 ページがめくられると、ドローゴは既に五十四歳となっていた。
 早々に辞めると決めていた砦の勤務だが、今では彼は少佐にまで昇進し、副司令官にまでなっていた。
 そして老いと共に病も得た彼が床に伏せっている時、彼の宿願が叶うかに見えた。
 敵が攻めて来たのだ。
 果たして彼の夢は果たされるのか。その結末は是非本書を読んで確かめて欲しい。
 それも、できるだけ若いうちに。
 というのも、ドローゴの上に流れる時の流れの描写が、年をとればとるほどに、読み手にもより切実に身に沁みて感じられるようになってくるからだ。
 今という時を無駄に過ごしていないか。惰性の日常にかまけているうちに、本当は重要だった変化の機会を逸してはいないか。夢のような空想に浸る心地よさに、目の前の現実から目を背けているのではないか。
 流れる時は、決して止まらないのに。
 
 時の遁走が不意にぴたりと止まるのは、死を前にした時だ。
 彼岸と此岸の狭間にあるその一瞬、その地点まで自分は何を成し遂げられるのか、あるいは何も成し遂げられないのか。
 それをこの物語は突き付けてくる。年を重ねるにつれ、痛烈さを増していく過去への自省を強く強く促されるのだ。
 だからこそ、若い時にこそ読む本だと考える。日常を送る中で後悔があったにしても、まだ未来が大きく開けており、その改善や修復への可能性が多く残っているうちに。
 正直に言うと、大変に面白い本でありながら、再々読には躊躇してしまいそうだ。
 私には悔いなく時を過ごし、満ち足りた人生を送れる自信がないのだから。
 
#読書感想文
 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?