「道」(新潮文庫『道・ローマの宿』所収)井上靖著:図書館司書の短編小説紹介
著者は庭で飼っている二頭の犬が、丈の低い植込みの間を何度も通り、独特な道を作っているのに注目する。
そこには駆け易い場所だけでなく、体がやっと通れるような窮屈なところも何か所かあることを興味深く感じ、獣道ならぬ犬道と呼ぶようになった。
嫁いだ長女が家に来た時に犬道のことを話すと、彼女の六歳になる娘もやはり幼稚園からの帰り道などで、大人が通らないような道ともいえない道を通るのだと教えられる。
それを聞いた著者は、自らの子供時代を振り返り、友人と共に通り易い新道や旧道ではない、子供たち専用の遠回りな道、云わば子供道を選んで専らそこだけを使っていたのを思い出した。
「幼少時代に一度やって来て、その後再び訪れることのない周囲の自然との取引の鮮烈な印象は、その多くが子供たちが自ら選んで支配下に置いた子供道の思出につながっている。その後再び、そこにあったような夕映えの美しさも、薄暮の淋しさも、夜の怖ろしさも経験することはない。風の音までが子供道においては凛々と鳴っていたのである」と。
その後著者に来客があり、自分たち大人は多忙な時間に取り巻かれ、自分の道を持っていない、日々同じ馴染道しか歩いていない、といった話をする。
それは、そこはかとなく哀感が滲んでいるような対話だった。
最後に著者は、毎日正装し、時間の狂いもなく同じ山村の道を歩いていたという叔父の話を持って来る。
彼は長年アメリカで暮らし、日本へ帰って来ると落ち着く間もなく亡くなってしまったという。
その叔父の姉である著者の母は、彼が選んだ道は、かつて二人も神隠しに遇った“いけない道”だと言った。
犬道に始まり、子供道、馴染道、いけない道といった数種の道が紹介された本作に感応し、いくつもの思い、いくつもの思い出が胸に湧き上がった。
特に子供道については、文章を読みながらも、私自身の少年時代のことが思い出され、著者の思い出と重なり合って白昼夢を見ているような感覚に陥った。
著者から犬道と子供道とのことを聞いた客は、それらが野性と無関係ではないとする。
「原子の紐を体に付けている幼少時代だけ、人間は犬と同じように子供道を持つに違いない。崖を攀じたいし、原野の中に身を置きたい。人工の跡の少い山道や田圃道を歩きたいのである」というのが彼の意見だ。
なるほどそういった見方もあるだろう。科学的な視点から分析すればその通りなのかもしれない。
けれど、そこまで難しく考えないでもいい気がする。
少なくとも私は、単に背の低い子供だからこそ見付けられる道があったと考える。
地面に近いから植込みや塀の隙間が見え、例えば土の香を強く感じ、植栽の花を間近で見られ、霜柱が靴の底で砕ける音をはっきり耳にできる。
そのように、五感が鮮烈に刺激され、面白く感じる場所を探り、仲間と共有している内にいつの間にか子供たちだけが通る子供道ができるのではないか、というように。
思えば私も随分おかしな子供道を通ったものだ。
その一つが、学校の険しい裏山だ。林の中の斜面を上れば、コンクリートで回り込む道を行くよりずっと早く運動場に着ける。
けれど裏山の土の地面は急で、木の根を掴んだり、四つん這いになったりしなければ登れない箇所もあった。膝や服を汚しても、私たちはその近道を選んでいた。
ただ、それも小学五年生くらいまでだ。その頃になると分別も付いてきて、コンクリートの道を颯爽と歩く方が、がむしゃらに近道にこだわるより恰好いいと思われ始めた。
そのがむしゃらというのが、それこそどこか泥臭く感じられだした。
こういった心境の変化が野性からの決別だというならば、やはり子供道は野生の道であるのだろうか。
それでも、ビル通りの街を歩いていると、ふと子供道で嗅いだ土の香を含んだ風を感じたくなることがある。
私は、子供道からまだ卒業できないでいるのかもしれない。