読書記録「戯曲 アルジャーノンに花束を」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、ダニエル・キイス 菊池准 脚色「戯曲 アルジャーノンに花束を」早川書房 (1992) です!
・あらすじ
科学の進歩は目覚ましく、ニーマー教授とストラウス博士が提唱した"酵素の競合抑制"により、破損された細胞を再生できるという。
本来細胞が破損すると再生は不可能なのだが、脳の手術により再生が可能だという。実際にネズミのアルジャーノンを使った動物実験により、知能の増大が認められている。
だが、ネズミの生物実験程度では科学的に認められない。そこで、手術の対象者として、言わば、人体実験として挙げられたのが、チャーリイ・ゴードンであった。
チャーリイは知的障害を抱えているけれども、誰よりも勉強熱心であった。勉強して、頭が良くなれば、きっと友達と仲良くなれると信じていた。
手術後、思惑通りの増大が認められ、話し方は流暢になり、本が読めるようになり、何ヵ国語も話せるようになってしまった。
だが知能は増えても精神的には子供のままのチャーリイ。恋愛とは何か、相手を忖度するとは何か分からず、知識だけが増えていく。
昔はチャーリイを小馬鹿にしていた人々も、頭が良くなってしまったチャーリイを恐れ、世界が違うと遠ざけてしまう。
チャーリイは、友達が欲しかっただけなのに。もっと仲良くなりたかっただけなのに。
果たして、チャーリイはこの迷路から抜け出すことができるのか。
数年前に小尾芙佐さん翻訳の「アルジャーノンに花束を」を読んで以来、また読みたいと思っていたタイミングで、先日京都の古本まつりで戯曲版を見つけ紐解いた次第。
原作だとチャーリイの経過報告書を読んでいることが前提にある。手術前後で言葉遣いや思考が徐々に変化していくのを、読者が徐々に認識するようになる。
ただ、戯曲の場合は演者が観客に見せることが前提がある。物語を流れるように理解するためのプロットと、心理描写を描く表現方法が異なる。
特に、戯曲では対話によって物語が進行していくことが、小説との大きな違いだろう。経過報告書として感情をしたためるのではなく、思ったことは口に出す必要がある。
個人的に思わず涙腺が緩んだシーンがある。
手術後病院に入院している間、看護師から「自分の脳みそをいじらせるなんて勇気があるわね」と言われる。それに対して、チャーリイはこう答える。
これを聞いた看護師は、用があったらナースコールを押してねと言いながら、足早に下手に去るとある。
こんな言葉を本人の口から言われたら、自分ならどう思うだろうか。何て酷いことを言ってしまったとかと嘆くだろう。
みんなとなかよくなれるんだ。本人が望むのはただそれだけなのに、どうして今のままでも仲良くすることができなかったのかと。
中学の時だったか、特別支援学校と交流する行事でクラスから数名出向くものがあった。
言い方に語弊があるかもしれないが、交流して特に違和を感じることはなかった。普通に会話して、一緒に遊んで、むしろ自分よりもエネルギッシュで驚いた。
凄く、人生を楽しんでいるなって、朧気ながら覚えている。
でも、今目の前に意思の疎通が難しいような人がいて、それでも普通に話ができるかと、仲良くなれるかと聞かれたら、正直に言って分からない。
少なくとも、目の前にいるのは、同じく時間を過ごしてきた一人なんだって。自分とは違う世界の人ではないのだって、思えるようになりたい。それではまた次回!