読書記録「有頂天家族」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、森見登美彦さんの「有頂天家族」幻冬舎 (2010) です!
・あらすじ
桓武天皇が平安京に都を移して千二百年。京都の歴史は人間と狸、そして天狗の三つ巴の歴史と言っても過言ではない。
かくいう私は狸である。名を下鴨矢三郎と申す。
下鴨家と言えば、かつて狸界を統括した「偽右衛門」下鴨総一郎の一族であり、夷川家と並ぶ名門であった。
しかし、下鴨家の子孫は、生真面目だが土壇場に弱い長男 矢一郎、井の中の蛙になった次男 矢二郎、臆病者の四男 矢四郎。父の「阿呆の血」を強く継いでしまった三男 私のみ。
下鴨総一朗亡き今、下鴨家は「下鴨総一郎の血を受け継ぎ損ねた、ちょっと無念な子どもたち」と評価されている。
かくいう私はどこ吹く風。狸に説教を垂れる天狗に遠く憧れ、人間に化けるのも大好きである。
なによりここ京都では、今なお人間と狸、天狗の関係性が、車輪のように廻っている。
かつて弟子入した赤玉先生こと「如意ヶ嶽薬師坊」老天狗。人間でありながら天狗的になった「弁天」こと鈴木聡美。忘年会に狸を鍋にする「金曜倶楽部」。狸の名門「夷川家」の夷川早雲と阿呆兄弟 金閣・銀閣。
そんなわけで、私を取り巻く日常は目まぐるしく、退屈している暇が無いのだ。
先日の京都一人旅のお供に持参した本の1冊。アニメ化10周年記念のタイミングで紐解いた次第。
舞台が京都とあって、先の京都旅行で聖地巡礼したのは言うまでもない。
四条大橋東詰の南座の天井を眺め、寺町通りの錦天満宮の前を通る。
頂法寺(六角堂)の「へそ石様」を見て、君はまるで本物の石のように見えるが、実は狸なんだよなと一人にんまりする阿呆なり。
京都「ノスタルジア」で堪能した『偽電気ブラン』は、本物の電気ブランにニセと書き足したと言われても遜色なく、だが本物よりも香りが立っている気がして、ますます電気ブランを真似た偽物なのだ結論づける。
そうそう、エムジーショップ 大徳寺店に寄ったとき、「赤玉スイートワイン」が売っていたから、絶対東京でも買えるのに、わざわざ買っちゃったりね。
そう言えば、毎年のように夏の京都を訪れてはいるが、お盆と重なるがゆえに「五山の送り火」をこの目でしかと見届けたことがない。いつかは見たいものである。
それはさておき、阿呆の血を色濃く継いだ下鴨矢三郎。彼のモットーは「面白きことは良きことなり」である。
森見登美彦さんの作品では、たびたび「阿呆」という言葉が使われるが、そもそも「阿呆の血」とはなんぞや。
古来より「踊る阿呆に見る阿呆」という言葉がある。踊るも見るも同じ阿呆なのだから、全力で踊ったほうが得という意味で、阿波踊りの囃子唄にもなっている。
真剣に考えるならば、「常識的な考え方ができない」「発言・行動が頓珍漢」などといった意味である(森見作品では、自らの発言を正当化すべく『詭弁論部』が登場する)。
しかし、下鴨矢三郎たちとその家族が「常識的な考えができない」訳ではもちろん無い。
いかんせん難しく考える必要はない。現実が面白くないことだと思っているのならば、自ら面白くせんとする。
次期 偽右衛門を目指して孤軍奮闘する矢一郎を支えるべく、夷川家に対抗する下鴨家。
天狗や人間のいざこざに巻き込まれ、夷川の阿呆兄弟 金閣・銀閣に絡まれ、そして父の死の真相を知りながらも、一致団結する。
まさに「有頂天」とも言える家族の物語。
うまくまとめているようで、何もまとまっていないのだが、人生を面白く、ドラマチックに思えたほうが愉快ではあるまいか。
そして、物語を読むときくらいは、これくらい阿呆に読んでも良いかではないかってね。
今なお京都の余熱が冷めぬ自称読書家なり。それではまた次回!