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読書記録「贅沢貧乏」
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
今回読んだのは、森茉莉さんの「贅沢貧乏」講談社 (1992) です!
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・あらすじ
牟礼魔利は、自分の部屋の中に関しては、細心の注意を払っている。
紅茶茶碗、匙、洋盃、硝子の空壜1つ、鉛筆1本に至るまで、魔利独自の基準で選んでいるのだ。
魔利は赤の字がつくほど貧乏であるが、貧乏臭さを心から嫌っている。反対に、贅沢と豪華さを持つ色彩が、好きである。
ミルクを入れたように甘く白い紅色のアネモオヌ、「シャアロック・ホオムズ」2冊、聖母母子の絵葉書、アルモンド入りネスレエ・チョコレエト、葡萄酒を薄めたような色の洋盃……。
これの一体どこが豪華なのか、判断に苦しむかもしれない。
しかし魔利にとっては、美しい、夢の部屋である。
自分の頭の中にある夢の部屋の存在を、正当化しようとして、こんな意見を引っぱり出して来るので、あるらしい。《夢こそこの世の真正の現実。そして宝石》
森鴎外の娘である森茉莉による、「黒猫ジュリエットの話」や「降誕祭パアティー」などの12篇を収録したエッセイ。
森茉莉を知ったきっかけは、児島青さんの「本なら売るほど」にて、森茉莉の小説やエッセイ(貧乏サラヴァン)が登場したこと。
散歩がてら立ち寄った、池袋の古本屋「往来座」にて本著を見つけ、紐解いた次第。
本著は1950年頃のエッセイではあるが、その感性は今読んでも通じるものがある。
本著でも牟礼魔利(森茉莉)は、美というものは理論や思考とは関係なく、ただ美それだけで最大なものだと言う。
大体美というものが、善や美徳と媾和することで最大に光り耀くのだという理窟が、マリアにはのみこめない。道徳と仲よくしなくても美は美であって、いつでも最大のものだと、マリアは信じている。
私自身、月に一度は美術館を訪れてはいるものの、結局何が美であるかは、全然わからないでいる。
先月の東京読書倶楽部の読書会においては、あらかじめ芸術史や文化史などを追ったほうが、より美術館を楽しめると語っていた。
その考え方は同意である。ただ漠然と絵画や彫刻を観るよりかは、その背景を知っている方が、その価値をより理解できるだろう。
でもそうなると、歴史的背景のあるものにしか、美としての価値がない、とも捉えられかねない。
むしろ、牟礼魔利(森茉莉)のように、美はそれ自体が美である、という感性であれば、どんなものにも美を見出すことができる。
そうやって自分が思う美が集まった部屋は、なんと豪華な空間となるか。
職人が絵模様の陶板を一枚々々貼って、一つの物語を現す美しい壁を作るように、茉莉の頭の中では、限られた些細な空間の一齣々々に、茉莉の理想とする美のイメージが集結しているのである。
より抜粋
このように、贅沢や豪華さというものは、いくらという金銭的なものではなく、心の在りようであるかのように思われる。
むろん、金が全く必要ないわけではない。森茉莉自身、今日のご飯を食べるために、小説を書く必要があったのだとも嘆いている。
ただ、金が無いということと、貧乏心を持つことは、また違うのかもしれない。
清貧とはまた違う、自分にとって心の滋養になる贅沢を楽しむということ。
要するに、不格好な蛍光灯の突っ立った庭に貧乏な心持で腰かけている少女より、安い新鮮な花をたくさん活けて楽しんでいる少女の方が、ほんとうの贅沢だということである。
そういう心持ちを大事にしたいものである。それではまた次回!
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